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さすらう学人の歌(2)

あちらでは正倉院展が始まったそうなので、
こちらでもゆるらかに執筆再開。

会津八一の全歌集と言ってよいらしい
『自註鹿鳴集』を読みながら、
私は、ひとつひとつの短歌が、
あたかも身に沁み入るような感触を覚えていた。
そして、私の身体は、
只でさえ細い目を、もっと細めたくなるような
そこはかとない幸福感に、浸されていったのである。

いろいろ試みてみたけれども、
このような心情的触覚や幸福感を、
適当な言葉で説明することができない。
私に好感を覚えさせる歌集であることは、確かなのだが、
今までに愛読し、論評を重ねてきたタイプの作品とは、
どうやらまるで異なったものであるらしいので、
『鹿鳴集』という抗原の流入に対して、
抗体となるような言葉を、作り出しかねているのだ。

会津八一の短歌、
特に『南京新唱』や『南京余唱』に纏められたような
古都奈良に取材した作品(両歌集ともに『鹿鳴集』所収)は、
文芸的な創作物というよりも、
むしろ一種の「儀式」なのかもしれない、
という思いがよぎったこともある。
それは「歌の徳」による饗応、「言霊」による供儀だというよりも、
歌そのものが、ひとつの「儀式」であり、
大千世界の鳴動ですらあるかのような。

  ほほゑみて うつつごころ に ありたたす 
  くだらぼとけ に しく もの ぞ なき

  おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて
  おほき ほとけ は あまたらしたり

こうした歌に対して、
私が抱いた「言葉にならない幸福感」は、
なるほど、儀式というものに列席した時に、
ふと自覚させられる、良い意味で空虚な幸福感と、
どこかで繋がっているような気がする。
一方で、会津短歌の中でもとりわけこれらの歌は、
近代文学的な「物思い」から、
完全にとは言わぬまでも、かなり離れたところに
「ほほゑみて」「ありたたす」ようにも想像される。

だが、待て。
「会津八一の短歌は、儀式である」と宣言したいのなら、
その前に、「儀式」という行為(もしくは装置)の正体について、
もっと具体的な言葉で定義を与えることが、
できるようにならなくてはならない。
また、歴史的に見て、
短歌という文芸ジャンルには、様々な意味や次元において、
少なからぬ「儀式」性が、纏わり続けてきたのだ。
例えば、額田王の歌に纏わった「儀式」性と、
会津短歌に私が指摘したがっている「儀式」性の間に、
系譜関係はあるのか、ないのか、
会津八一と同時代の歌人には、
会津短歌に匹敵するほどの「儀式」性を備えた作品は、
皆無だと言えるのか、言えないのかといった問題についても、
きちんと答えなくてはならないのだ。

格好良さそうなキャッチフレーズを思い付いただけで、
会津八一の短歌を、
きれいに読み解けたような気持ちになるとしたら、
それほど危険なことはない。
私は、少なくとも当面の間は、
「これは儀式なのである」という、根拠のあやふやな認識を、
厳しく封印した状態を保って、
会津短歌に向き合ってゆく必要がある。

そういうわけで、もう一度繰り返して言おう。
今の私にとって『鹿鳴集』は、
なぜだか分からないけど、好きな歌集である。

※続く

# by nazohiko | 2006-10-30 00:01
by nazohiko | 2006-10-30 00:01 | ☆旧ブログより論考・批評等
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