おれが東京へ着いて下宿へも行かず、
革鞄を提げたまま、清や帰つたよと飛び込んだら、
あら坊つちやん、よくまあ早く帰つて来て下さつたと涙をぼたぼたと落した。
おれも余り嬉しかつたから、
もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云つた。
ここでいう「下宿へも行かず」とは、何を意味するのか?
「坊っちゃん」が、四国赴任中にも、東京の下宿を借り続けていたとは思えない。赴任が決まった段階で、「四畳半も引き払はねばならん」という言葉も発しているのだし。東京に帰り着いた当日に、そんなに急いで新居を探す必要もあるまい。四国到着の直後と同じように、しばらくは旅館に寝起きしても構わないのだ。
彼は、東京を離れる時に「四畳半の安下宿」を退居したけれども、東京に帰ったら、また同じ下宿屋に入ることを、主人と内約してあったのではないか。そうだとすれば、「赤シャツ」のように「四国辺」に定住するのではなく、比較的すぐに東京へ戻ってくることを、当初から意図していたことになる。「行く事は行くがぢき帰る。来年の夏休にはきつと帰る」と、彼は清を慰めたが、「帰る」というのは、休暇を利用して一時帰郷することではなく、転職または任地替えによって、恒久的に東京へ帰るという意味だったのかもしれない。「来年の夏休」よりも、遥かに早く帰ってきた彼は、「街鉄の技手」に再就職して、「家賃は六円」の一戸建て(?)に移るまでの間、学生時代に住んでいた安い下宿で、無収入の日々をやり過ごしたのだろう。