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マラソン・リーディング2003寸感

 短歌を中心とした朗読会「マラソン・リーディング2003」を覗いてきた。午後3時から8時まで計32組が、殆ど一人で演壇に上がった。近年流行しているらしいポエトリー・リーディングというものを初めて見聞したのだが、あいにく私は「良き観客」になり得なかったようで、つまるところ「ときどき面白い部分があった」というのが感想である。とはいえ、全くピンと来るもののない、異教の祭典に参列するような気分だという訳でもなかったのであって、気がついたことを以下に数言してみたい。

 第一に、初級者的かつ悪い意味での自己陶酔や自己顕示欲の目立つ朗読テクストが多かった。尤もそれ自体は結社誌・同人誌・商業誌・商品歌集・ウェブサイト等の文字媒体でも大同小異なのだが、興味深かったのは、そうしたテクストの作者ほど、朗読にあたって鬼面人を驚かすが如き衣装やパフォーマンス、奇声や喧噪なBGMに頼る傾向が見受けられたことである。私は決してストイシズムだとか、一種の原理主義を要求しているのではない。例えば東直子氏の演目構成――身体に巻いてあったリボンを解きながら、裏側に綴られた短歌(誕生日の祝歌なのに何処となく挽歌の香りがする!)を順次読んでゆき、最後にそのリボンで花束を縛るや、客席の暗闇へ放り投げてしまう――には、いやはや息を呑まされた。一方で斉藤斎藤氏(短歌)・柴田千晶氏(現代詩)・雪舟えま氏(ベートーヴェン第9交響曲の訳詩)のステージは、上記のような意味では全く素朴でありつつ、朗読の行為として大変に印象的だった。段々と高まってゆく客席の笑声に対し、巧みなタイミングや調子で次の1首を繰り出していった斉藤氏には、特に拍手を。


*      *      *      *      *


 「マラソン・リーディング2003」で気づいたことの第二。私は文語を目で見た時には、かなりストレートに感受できるつもりなのだが、音声として耳に届いた時には言語としてのアクチュアリティが不足するようで、朗読テクストの中に文語作品が挟まれる度に、掴み所のないような、何だか演者から仲間外れにされているような心持にしばらく陥った。「音楽家」足立智美氏の、ドイツ語の音韻を様々に組み合わせた「変奏曲」には、そのような感触を覚えなかったので、「異形の言語」イコール「朗読には不適」という訳でもなさそうである。

 この問題に即して、幾つかのステージを回想してみるに、錦見映理子氏の短歌はすべて文語だったが、同じく文語による詞書を大半の歌に配してあり、かつ朗読テクスト全体が『文語訳聖書』を意識した文体で統一されていた。また高橋睦郎氏の現代詩は口語部分と文語部分が交替する形になっていたが、文語部分は『万葉集』と聞き紛うばかりの長歌になっており、そこには文語的前置きが何もなかったというのに、錦見氏の短歌ともども、私の耳は音声としての文語にしっかりと食いつくことができた。思い切って日常言語から遠く離れた文体を採ったことにより、その「異形の体系」ぶりが却って一つの言語的アクチュアリティとして働きかけてきたのだろう。一方で、両氏の文体ともに、『文語訳聖書』や『万葉集』という、私たちが決して未知ではない雛形を用いている点にも注目するべきかと思う。いずれにせよ、現代の書き言葉と限りなく地続きなものとして混在させられたと思しき「汎用的近代文語」こそ、朗読の舞台にあってはむしろ目論見が裏目に出てしまったのである。


*      *      *      *      *


 「マラソン・リーディング2003」で気づいたことの第三は、口承文芸におけるリフレイン的構成の効用である。このことは日本の古代歌謡や西洋の叙事詩についての論考を読んで、既に自分の知識にはなっていたのだが、今回初めて詩歌の朗読に触れて、そうした構成法が聴衆に感動を与えるための技巧であるのみならず、時として不可欠であるほど重要であることを思い知らされた。一篇の多行詩や一組の短歌群を黙読する時には、読者はいつだって視線を冒頭に戻し、作品あるいは作品群としての流れを改めて俯瞰することができる。しかし、朗読を聴く場合はそれが不可能だ。故に「これまでのあらすじ」を思い出させてくれるための刺激剤として、リフレイン要素が有効になるのである。そしてその際、リフレインとは既出語句を反復するものではあるが、朗読済みの内容を要約的に回顧する言葉ではないため、進行中の作品の流れを止めてしまうという副作用がない。

 第四に、かといって「朗読された具体的な言葉が、鑑賞中や鑑賞後の記憶によく残っていること」と「朗読テクストや朗読の行為として優れていたこと」は、必ずしもイコールにならないという認識を新たにした。これは黙読の場合にも言えることだが、朗読を聴く場合に一層顕著であるように思われ、また多行詩よりも、1行ずつが独立している短歌や俳句について宿命的に著しいという発見である。実を言えば、私は前号で錦見映理子氏の短歌朗読を称賛したが、錦見氏によって発せられた短歌や詞書の一片たりとも今や覚えていない。テーマや文体に関する僅かな記憶を除いては「よい詩歌に触れた。よい朗読を聴いた」という幸福感ばかりが残り、それは今も脳裏を満たしている。そんな朗読を、そんな極端な体験を、私はもう少々追いかけてみようかとも思う。


初出:「塔」2003年7-9月号 # by nazohiko | 2003-07-01 00:00
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# by nazohiko | 2003-07-01 00:00 | ☆旧ブログより論考・批評等

ご歌語を垂れたまへ(未定稿) 後半

 西洋詩の翻訳は、原詩に

これは盃のまはるによりて其元へ盃をさすと云ひて手取詞を用ゐて戯るゝなり。

等と簡単な要約を添えた青木昆陽「阿蘭陀勧酒歌訳」を初め、文芸作品として意図されていないものも含めれば十八世紀中葉に端を発すると言え、十九世紀初頭には既に漢訳と和訳の二種が行われるようになっていたが〈▼25〉、西洋詩の漢訳活動はその後あまり振るわず、明治二十二年の『於母影』に収められたあたりを最後に廃絶してしまった。対して和訳活動の方は、江戸時代いっぱいは漢訳詩と同じく目立たなかったものの(やはり訳語の不足に阻まれてのことだろうか)、西洋文献の翻訳が本格化を始めた明治年間まで着実に存続して、近代訳詩の雛形となったのである。

 そこで、江戸時代における和訳西洋詩の語彙や文法を検じてみるに、例えば代表的な作品とされる中島広足の「やよひのうた」(文政五年より安政五年までの間に訳出。原詩不明)に

あはれいかに、かくおもしろき、/あはれいかに、かくおもしろき、/名にしほふ、春のやよひは、/いろいろの、小草もえ出で、/さまさまの、花も咲きそひ、/木々は皆、若葉さしつつ、

云々とあるように、それらが全く以て「歌語」の枠内にあることが知られ、ここから近代訳詩の言語的雛形も「歌語」であることが推定されてくる。そもそも江戸時代の和訳西洋詩は、当時おしなべて「長歌ぶり」という名称で分類されていたのであって〈▼26〉、言い換えれば和歌の一亜種として文人たちに認識されていたのだった。そして、近代訳詩は「歌語」という基盤に加え、片や江戸時代の蘭学者・同時代の中国語訳西洋文献・同時代の西洋文献翻訳者によって導入された新語を摂取し、片や「古言を復活」してゆくことによって、原詩の「趣向」や「用語」を移植し仰せるだけのヴァージョン・アップを日本語に施していったのである。

 それでは「古言を復活」するとは具体的に如何なることか。右に各々列挙した、西洋語に対して江戸時代蘭学者の新造した訳語・同時代の中国語訳西洋文献から輸入した訳語・明治年間の翻訳者の新造した訳語を振り返ってみよう。その全てが漢字熟語の形式を取っていることにに気付くのは造作ないだろうが、「古言」の復活運動にあたっても、第一段階においてはこれらと同様の字面を持つ、古典漢籍中の語彙が優先された。即ち、早くから日本人に親炙して当時既に古色を帯びつつあった漢字語彙、或いは死語化してしまっていたような漢字語彙を発掘し、改めて西洋文献の翻訳に用いるという作業が行われたのであり、井上哲次郎の『哲学字彙』(明治十四・十七年)には、「形而上」や「先天」が儒教経典『易経』に由来すること、「範疇」が同じく『書経』に由来すること、「演繹」も同じく『中庸』に由来すること等が記されている〈▼27〉。

 この他にも

革命(『易経』)・教育(『孟子』)・具体(『孟子』)・自然(『老子』)・法律(『管子』)・進歩(『伝灯録』)・分析(『漢書』)・物理(『晋書』)・保険(『隋書』)・思想(曹植詩)〈▼28〉

等、枚挙に暇ない「古言」が西洋語の訳語へと転用されていったのであり、中には本来「わがまま」を意味した「自由(杜甫詩)」や、学問一般を指した「文学(『論語』)」のように漢籍での語義からかなりずらして応用された事例も散見される〈▼29〉。西周の定めた翻訳語彙の約半分が彼の新造語であることは前節で述べたが、その彼もまた、残り半分を古典漢籍に拠っていたのであり〈▼30〉、これらの事実からは、古典漢籍からの「古言」復活が西洋文献に対する訳語確保の方法として、一般に小さからぬウェイトを占めていたことが窺われるだろう。

 ここで翻訳詩の動向に目を振り向けるに、井上の『哲学字彙』と歩調を合わせるかのように明治十五年に刊行された、訳詩を主とする詩集として外山正一他の『新体詩抄』があり、同書は「シェークスピール氏ヘンリー第四世中の一段」の

王を暗殺謀る者/其数最とも多かりき 議院は権理打ち守り/王に烈しく抵抗す 財政最とも困難し/王は人望失ひて 健康漸く衰へて/其晩年に至りては 自ら悔ゆる其悪事

という一節に示されるように、典型的なまでに「古語文脈、漢文脈を基底とした文語体」〈▼31〉に通して訳語を確保している。これは古語のうちでも「歌語」を使用言語の基礎に選んでいる点を除けば、西や井上の手になる西洋文献の翻訳を初め、同時期の学術・文芸諸分野で取られたものと全く共通する方法だと言える。兎角、外山の序にいう「連続したる思想」の表現の試みなど、内容面においてのみ「新体」だと評価されがちな『新体詩抄』だが、「歌語」と漢語が共存する翻訳用言語の設定という点においてもまた、確かに江戸時代和訳詩から一歩を進めた「新体」の訳詩集なのだった。


*      *      *      *      *


 次いで明治二十二年の、森鴎外他による『於母影』に至ると、既に『新体詩抄』以前の明治七年に刊行された『神戸版無題讃美歌集』に萌芽していたことではあるが、近代訳詩はいよいよ他分野の訳語確保法とは決定的な一線を画するようになる。『新体詩抄』や同時期における他分野の翻訳書が「古言を復活」した時、それらに用いられた「古言」が専ら古典漢籍中の語彙だったのに対し、『於母影』以降は西洋文献の翻訳者のうちでも独り訳詩者のみが、復活させる「古言」の範囲を日本古典一般にまで広げたのだった。『於母影』所収の訳詩には、前述のように漢訳詩も含まれているが、それはともかく和訳詩には訳語を一層充実させるべく(勿論、特に訳詩もあくまで詩作品である以上、こうした目的論だけで片付けてしまうべきではあるまいが)、平安時代から中世の『平家物語』前後までの散文から語彙が復活させられているのである〈▼32〉。

 列挙するならば、およそ

青海原・村千どり・夕日影・八重葎・とまや・旅ごろも・ねたきこゝろ・ま玉手まく・村しぐれ・いぶせき・かざしの匣・つげのをぐし・そなれまつ・ひねもす・枝もたわゝに・所えがほに〈▼33〉

の如くである。一方、漢字熟語形式の訳語は『新体詩抄』等に比べて出現率が後退し、いわば通奏低音としての「歌語」や右のような和語系語彙の勢いに隠れがちにはなっているものの、要所要所ではシエツフエル「笛の音」中の「兵卒」、バイロン「マンフレツト一節」中の「時計」「哲学」「鬼神」のように健在であり、少なくとも和語系訳語群の導入と引き替えに廃されたりはしていない。むしろ同書中の和訳詩は漢語を用いても、前節で『新体詩抄』から引用した「財政最とも困難し」のように生硬な表現からは無縁であり、その分だけ老獪であると言えるから、同書段階ではもはや充分に漢語が定着したものと評するのが適当だろう。

 このように「古言」を和漢共々に復活させて訳語を得るという営為から見て、同書は外山が『新体詩抄』の序で提唱した「和漢西洋ごちやまぜて、人に分かるが専一」という翻訳態度を継承発展させたものだと捉えることができる。『新体詩抄』という肩肘張った漢語書題と、『於母影』という王朝風かつ芸術性の高い書題との差異にも、両書の到達点の落差を象徴的に感じ取ってよいかもしれない。因みに『神戸版無題讃美歌集』では、

じひのひかりに けふよりは/ちりのうきよの ゆめさめて

といったように、院政期的な和讃の語彙を持ち出して訳語を確保している〈▼34〉。

 そして明治三十八年に刊行された上田敏の『海潮音』こそは、「古言」の復活による使用言語の変革を大成した訳詩集だと言えるだろう。同書に関しては安田保雄が

当時の詩人は、外国の詩語がその豊饒によつて如何なる想像にも堪へ、如何なる感情をも洩さないのに瞠目して、伝統的歌詞の貧しさにあきたらず、熱病的な眸で古典を渉猟し、日露戦争の前後には、古語交響楽の新曲が矢のやうに射かはされたのである。そしてその指揮棒を採つたのが、実に『海潮音』の著者上田敏その人であつたのである。〈▼35〉

と指摘しており、上田自身も「古言を復活させたり古文脈を採り入れたりする方針でやつて居た」と述懐している〈▼36〉。具体的にはまず、漢語系「古言」が『新体詩抄』や『於母影』以上に積極的に復活させられており、殊に漢訳仏典の語彙にまで出典範囲を広げた点において、そうした傾向は顕著となっている〈▼37〉。

 例えば、ルコント・ドゥ・リイル「大飢餓」の

青空かくも荘厳に、大水更に神寂びて、/大光明の遍照に、宏大無辺界中に、/うつらうつらの夢枕、煩悩界の諸苦患も、/こゝに通はぬその夢の限も知らず大いなる

という一節を見られたい。同書に現れた訳語の全体を通して、仏典以外の古典漢籍に由来する語彙の比重も大きく、訳詩全五十七篇のうち漢語を用いないものはと言えば、ヰルヘルム・アレント「わすれなぐさ」やカアル・ブッセ「山のあなた」等僅か数篇に過ぎない。また日本古典一般からの「古言」の復活においても旺盛を極めており、奈良・平安・江戸時代の物語や日記、平安時代の催馬楽、中近世の歌謡・謡曲、江戸時代の浄瑠璃・俳諧など、あらゆる時代あらゆる文芸分野の語彙が活用されていると言って差し支えない〈▼38〉。

 これは、『於母影』や『神戸版無題讃美歌集』では日本古典の「古言」を利用するといっても、それぞれ平安時代から『平家物語』成立期前後までの散文、院政時代の和讃といった狭い範囲に出典が限られていたのに比べて、『海潮音』が究極的な進歩を達成したことを意味する。同書が訳語として復活利用した日本古典中の語彙を拾ってゆくなら、およそ

〔上代〕災殃・梯立・はしけやし・おどろしき・現身・足穂・荒磯・さはに・さ丹づらふ

〔中古〕沈黙・喪・渡殿・清掻・はした女・黄牛・水干・青海波・蜘手に・諸声に・涙さしぐみ・そばめられたる・清らなる・清らの・翁びし・ながながし

〔中世〕足弱・空手・さをとめ・みざま・八重の潮路・修羅の戦・闇穴道・達人・擁護・火宅・煩悩・妄執

〔近世〕時雨月・稜威・うらどふ(心中をさぐり尋ねる)・あだ心・笑止・死する・有名の・繰返の〈▼39〉

の如くであり、平安時代の物語・日記からの復活語彙だけでも更に

あてに・倦じ・艶だちぬ・おほどかに・あふさきるさ・落居たる・雲のはたて・後期・兄鷹・鈍色・ねび・身動・三瀬川〈▼40〉

を挙げることができる。

 同書では更に、前節で言及した「文学」や「自由」の場合と同じく、古典中の語彙を原義から意図的にずらして訳語に充てるという手法も用いられており、本来自動詞だった「紛る」を他動詞として用いる、魚の捕獲行為「すなどり」を「漁子」として漁師の意に用いる、つむじ風を意味した「辻風」で「巷吹く風」を指す、一段低まった部屋のことだった「落窪」を窪地の意に用いる、固有名詞「大原」を普通名詞「大きい野原」として用いる、平安時代の物語・日記では弱々しい様子を表し、鎌倉時代に入ると死語化していた「あえか」をデリケートな美しさの意味で復活させる等〈▼41〉がこの例に当たる。

 こうして『海潮音』に採用された翻訳用言語は、

時こそ今は水枝さす、こぬれに花の顫ふころ。/花は薫じて追風に、不断の香の爐に似たり。/匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、

と始まり

闇の涅槃に、痛ましく悩まされたる優心、/光の過去にあとかたを尋めて集むる憐れさよ。/日や落入りて溺るゝは、凝るゆふべの血潮雲、/君が名残のたゞ在るは、ひかり輝く聖体盒。

に終わるボドレエル「薄暮の曲」に窺われるように、「歌語」を基本としつつ、西洋文献の翻訳のために新造された漢語、古典漢籍中から復活させられた語彙、そして各時代・各分野の日本古典から復活させられた語彙を縦横に共存させた「混合体」となったのであり、言い換えれば訳詩に用いられる語彙の出典範囲、即ち「混合体」を調合するためのパレットは、遂に和漢のあらゆる文献にまで拡張されたのである。そしてこうした翻訳用言語の確立によって初めて、「ほとんど翻訳すべからざる」〈▼42〉フランス象徴詩ですらかなり自在に日本語化することが可能となった。

 そして同書以後に刊行された西洋詩の翻訳作品においては、「勅撰集以来の言葉と滑らかな五七調」即ち「歌語」に「愛乙女」「我妹子」等の上代語を導入した〈▼43〉、明治三十九年の小原無絃訳『バーンスの詩』にせよ、殊に近世古典の語彙の復活利用に富む〈▼44〉、永井荷風の明治四二年から大正二年までの訳業『珊瑚集』にせよ、訳語の出典となる文献の分野はほぼ『海潮音』のそれに落ち着くようになり、専ら訳文中の日本語表現の手慣れ具合において後続者としての進歩を主張する道を選んでいったように見受けられるのである。


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 以上のような経緯を辿ってきた近代訳詩が、日本語による創作近代詩の確立に大きな影響を及ぼしたことは指摘するまでもない。外山たちが最初期の近代訳詩を開拓してゆく一方で、彼ら自身による訳詩を模倣して創作し、『新体詩抄』に収めた五篇の詩こそが、そもそも日本初の創作近代詩だったのであり、また『海潮音』が蒲原有明・薄田泣菫・北原白秋・木下杢太郎等の詩作に及ぼした影響はつとに著名である。しかし、近代翻訳詩史を軸として文芸史上に俯瞰することのできるものは、それだけなのだろうか。少なくとも使用された語彙という局面において、或いは文法という局面においても、近代訳詩が達成したものは創作近代詩への影響に勝るとも劣らぬほど、近代歌語の成立に対しても強い影響を及ぼしたことだろう。

 最初の節でも述べたように、近代訳詩の言語と近代歌語は、共に「奇妙な混合体」であるに留まらず、「混合体」の成立過程や内訳においてもかなり符合している。そして、江戸時代和訳詩から近代訳詩への移行史に若干遅れる格好で、和歌分野では「歌語」から近代歌語への転変が進行していったのだった。

 更に、それ以上に内面的な影響関係を予感してはいけないだろうか。訳詩という近接する文芸分野において、本来やむを得ない営為として実践されていった使用言語の変革が、片や「歌語」の枠を超えた語彙や文法の体系が持つ、豊かな表現能力を、片や「歌語」を詩歌言語中のワン・オヴ・ゼムとして相対化する態度を歌作者たちに見せつけたことを通して、和歌という言語空間にパラダイム転換を促したのかもしれないと仮説しても、全くの的外れではないのではあるまいか。詩を初めとする翻訳文芸作品が明治日本にもたらした新奇な内容もまた、子規等に和歌の「趣向の変化」を希求させたものの一つだったかもしれない。或いは、西洋詩が翻訳者たちの胸中に強迫的に吹き込んだ「日本語に移して表現するべき物事」が、近代訳詩という分野に「新しい詩歌言語」を結晶させ、そうして既存のものとなった「新しい詩歌言語」が、今度は近接する和歌分野を刺激して、歌作者たちの胸中にも彼らなりの「表現するべき物事」を生じさせた、というフィードバック関係を想定しても面白いだろう。


▼1  岡井隆「茂吉の歌 私記」 『岡井隆コレクション四 斎藤茂吉論集成』 (一九九四、思潮社)所収 二四二頁
▼2  林勉「和歌の修辞Ⅰ」 和歌文学会編『和歌文学講座一 和歌の本質と表現』 (一九六九、桜楓社)所収 一九七頁
▼3  滝沢貞夫「和歌の用語」 同書所収 二四九頁
▼4  林前掲論文 一九七頁
▼5  京極興一「近代短歌における已然形止めについて」 日本文学研究資料刊行会編『日本文学研究資料叢書 近代短歌』(一九七三、有精堂出版)所収 二二二頁
▼6  滝沢貞夫「和歌の用語」 和歌文学会編前掲書所収 二四八頁
▼7  同 二四二頁
▼8  同 二四一頁
▼9  同 二四三頁
▼10  同 二四七頁
▼11  同 二四六頁
▼12  藤平春男「国学と和歌」 日本文学協会編『日本文学講座九 詩歌Ⅰ』(一九八八、大修館書店)所収 二六〇頁
▼13  伊藤嘉夫『短歌表現論』(一九六八、明治書院) 三一五~三二八頁
▼14  斎藤茂吉「正岡子規の歌論」 『斎藤茂吉全集一一』(一九五三、岩波書店)所収 一一五頁
▼15  斎藤前掲評論 一〇八頁
▼16  森田思軒談話「翻訳の苦心」 加藤周一・丸山真男編『日本近代思想大系一五 翻訳の思想』(一九九一、岩波書店)所収 二九二頁
▼17  加藤周一「明治初期の翻訳」 同書所収 三六一頁
▼18  同 三六二頁
▼19  大槻文彦編「箕作麟祥君伝」 同書所収 三〇六頁、ジャニン・ジャン「『万国公法』成立事情と翻訳問題」 同書所収 三九一頁
▼20  大槻前掲伝記 三〇六頁
▼21  同 三一二頁
▼22  加藤前掲論文 三六四頁
▼23  同 三六五頁
▼24  矢野峰人「上田敏先生」 『明治文学全集三一 上田敏集』(一九六六、筑摩書房)所収 三八三頁
▼25  吉田精一「明治大正訳詩集解説」 『日本近代文学大系五二 明治大正訳詩集』(一九七一、角川書店)所収 八頁
▼26  同 九頁
▼27  森岡健二『改訂近代語の成立 語彙編』(一九九三、明治書院) 四〇七~四〇八頁
▼28  同 四〇八頁
▼29  加藤前掲論文 三六四頁
▼30  同
▼31  澤正宏「『新体詩抄』の出現」 日本文学協会編『日本文学講座一〇 詩歌Ⅱ』(一九八八、大修館書店)所収 五七頁
▼32  森亮「『於母影』から『珊瑚集』まで」 芳賀徹ほか編『講座比較文学二 日本文学における近代』(一九七三、東京大学出版会)所収 六七頁、久保忠夫「於母影・語彙とスタイル」 中島健蔵他監修『近代詩の成立と展開』(一九六九、有精堂出版)所収 八六頁
▼33  森亮前掲論文 六七頁
▼34  加藤「詩」 加藤・丸山編前掲書所収 四六五頁
▼35  安田保雄『上田敏研究 増補新版』(一九六九、有精堂出版) 九三頁
▼36  矢野前掲論文 三八五頁
▼37  森「『海潮音』の性格」 同書所収 三九二頁
▼38  矢野峰人「海潮音・概説」 中島健蔵他監修前掲書所収 九七頁、安田前掲書 一〇一頁、森亮「『於母影』から『珊瑚集』まで」 六六頁
▼39  同 六七頁
▼40  安田前掲書 一〇五頁
▼41  森亮「『海潮音』の性格」 三九五頁、安田前掲書 八七頁 
▼42  吉田前掲論文 二八頁
▼43  加藤周一「詩」 四七一頁
▼44  吉田前掲論文 三六頁

# by nazohiko | 2001-04-01 00:00
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# by nazohiko | 2001-04-01 00:01 | ☆旧ブログより論考・批評等

ご歌語を垂れたまへ(未定稿) 前半

 岡井隆が「近代歌語というのは、奇妙な混合体である」と書いている〈▼1〉。誰しも何となく納得できる指摘ではないかと思う一方、しかし大多数の人にとって、その納得は「何となく」程度のものに留まってしまうのだろうという気もする。かくいう小生が、まさにそうだった。ならば近代の和歌に用いられてきた語彙や文法は、如何なるものと如何なるものの混合体であって、それが如何様に奇妙だと言えるのだろうか。フラスコ中の薬品の色は、白紙をあてがって検じるものだと教わったことでもあり、まずは近代以前、即ち歌の語彙が「奇妙な混合体」と評されるものになる以前の状況を一瞥してみよう。

 ここからは、前近代このかた伝統的に「歌語」と呼ばれてきた言語、即ち古典文学史や伝統的歌学でいう、狭い意味での「歌語」を括弧付きで表記することにするが、それは平安時代に成立した三代集(『古今集』『後撰集』『拾遺集』)によって成立したものと言うことができる。より正確に言えば、藤原定家が『詠歌大概』の中で「詞は三代集を出づべからず」と号令したように、三代集以後に活躍した和歌文化の担い手たちが、それらの中に現れた語彙や文法を「歌語」と呼んで括り出し、和歌という言語空間におけるいわば神聖な公用語として設定したのだった。

 このような事情により、そうしてかなり人工的に引かれた「歌語」と「歌語でないもの」の境界線からは、三代集以後に発生した語彙や文法が原則的に「歌語」に組み入れられないことは言うに及ばず、同じく年代論的理由により、上代の詩歌言語も少なからず排除されることになる。上代語によって詠われた『万葉集』には枕詞が多様され、異語数から見れば全体の六・〇パーセント、延べ語数から見れば全体の三〇・二パーセントを枕詞が占めていたのに対し〈▼2〉、「歌語」になると「あかねさす」「あまざかる」「あをによし」「うまさけの」「大伴の」「草枕」「たまきはる」「ももしきの」等が大きく淘汰されて〈▼3〉、例えば『新古今集』では枕詞の出現率が異語数では〇・九パーセント、延べ語数では三・八パーセントにまで落ちてしまう〈▼4〉。

 また

家離りいます吾妹を停めかね山隠しつれ心どもなし   大伴家持

に見られるような、家持・山上憶良・柿本人麿らによって多く用いられていた強勢的終止法としての已然形止め(係助詞「こそ」や「ば」を伴わない)は、「歌語」にほとんど現れることがなく〈▼5〉、この他にも藤原公任の『新撰髄脳』にある

「かも」「らし」などの古詞を別して、つねに詠むまじ。

という主張や、藤原俊頼の『俊頼髄脳』に見られる

「べらなり」といふことは、げに昔のことばなれば、よの末にはききつかぬやうにきこゆ。

という記述を通して、彼らが「歌語」を上代語と一線を画するものとして意識していたことが知られるのである〈▼6〉。

 「歌語」はまた、漢字のみで構成された詩歌である漢詩等とは対照的に、漢語を厳しく排除する。八代集(三代集以後『新古今集』まで)を例に取って、延べ語数十五万二千から、使用語彙に関して例外的な作品群である物名歌・釈教歌・連歌を除いて漢語を拾った場合、その数は約四十に留まり、即ち漢語の出現率は〇・〇二七パーセントに過ぎないことになる。右の三つの部立を計算に入れても、なお〇・〇三七パーセントにしかならない。歌合や私家集においても、漢語の排除されぶりは八代集の場合に準じる〈▼7〉。

 更に「歌語」は散文や、古典詩歌の中でも今様等と違って音便を用いることがなく、敬語表現も用いない〈▼8〉。以上のようにして「歌語」は「極端な迄異なった位相語を排斥」する語彙や文法の体系として自らを確立したのであり〈▼9〉、院政期に助動詞「たし」が参入するなど若干の新陳代謝現象を許容しながらも、明治年間初頭に至るまで「まことに閉ざされた言葉」としてその伝統を保持してきたのである〈▼10〉。『古今集』から『新古今集』までを例に取るならば、正に「詞は三代集を出づべからず」の教条通り、使用語彙には九十二~九十四パーセントに達する共通度が認められ、この現象は「歌語」の完璧なまでの継承関係を裏付けていると言える〈▼11〉。そして明治年間も中後期に至って、歌作における「歌語」の墨守が比較的速やかに風化し、和歌という言語空間の公用語は岡井氏のいう近代歌語に取って代わられることとなるのである。

 この時期に興った「近代歌語運動」とでも呼ぶべきもののうち、最も顕著だったのが、枕詞や強勢的終止法としての已然形等、『万葉集』の語彙や文法を復活しようとする万葉主義だったと言えようし、その代表的な現れとしては、明治三十一年の『歌よみに与ふる書』を初めとする正岡子規の評論や歌作を挙げればよいのだろう。しかし注意するべきことがある。子規等の万葉主義は、源実朝このかた断続的に流行してきたそれとは異質なのだ。実朝等に見られた万葉主義型の主張は、京の歌壇や京文化一般へのいわば対抗呪術として持ち出されたものだったのであり、賀茂真淵に至っては平安時代以降の日本文化全体に対する反発や劣等感の中で、「『万葉集』などの古典によって純粋な上代人の心も詞も現在に伝えられているのだから、日夜上代和歌の心・詞に親しんでその世界に入り込み、何とかその心・詞に似たいと志して歌文の創作を試みているならば、純粋な精神を保っていた上代に還ることができる」と要約される発想に基づいて、言語的なタイムカプセルとしての『万葉集』に逃避したのだった〈▼12〉。当然に、彼らの歌作活動においては平安貴族的な「歌語」が、排除される側に回ることになる〈▼13〉。

 一方、子規等の和歌においては片や『万葉集』に由来する語彙や文法と、片や「歌語」とが一首の中に共存していったのである。そして更に注意に値することとして、「歌語」と『万葉集』言語が共存するに留まらず、日本語による学術・文芸一般の中に出現してきた語彙や文法(漢語のそれを含めて)もまた、出典となった文献の分野や時代を問わず和歌言語に新規導入或いは復活使用され、それらがおしなべて共存するようになったのだった。斎藤茂吉からの又聞きによれば、子規は

如何なる詞にても美の意を運ぶに足るべき者は皆歌の詞と可申、之を他にして歌の詞といふ者は無之候。

と語っていたという〈▼14〉。そして、こうした成立経緯と内訳を備えた近代歌語は子規等の活動時期を経て、大正年間初頭までには「奇妙な混合体」として成立・定着していたと認めてよいようであり、例えば右にも名を挙げた茂吉は、既に初期作品集『赤光』の段階で

公園に支那のをとめを見るゆゑに幼な妻もつこの身愛しけれ

に見られるような、漢語や上代的活用を交えた歌作を自家薬籠中のものとするに至っている。

 さて、明治年間中後期から大正年間初頭における、「歌語」から近代歌語へのこうした転変史に着目しながら文芸史を追ってゆくと、「歌語」を継承しつつ、漢語を含め様々な時代・分野の日本語語彙や文法を適宜摂取してゆくという動きが、当時において和歌分野に独自のものでもなかったことに気付かされる。というよりも、近代歌語が成立していった過程は、或る近接文芸分野で既に進行中だった、その分野に適した使用言語を模索する活動を、時期的に一歩後から追いかけていたように見受けられるのである。

 子規は和歌言語を「奇妙な混合体」に変容させることを辞さなかったそもそもの理由として、

趣向の変化せざるは用語の少きが原因と被存候。故に趣向の変化を望まば是非とも用語の区域を広くせざるべからず。〈▼15〉

と語ったというが、「歌語」のみならず伝統的な趣向の体系をも精密に構築してきた和歌という分野にあっては、子規が抱いたような意欲はあくまで任意のオプションとして片付けることも可能である。文芸的アクチュアリティの寿命切れや既視感の累積に疑念が募らない限り、和歌には必ずしも「趣向の変化を望ま」なくて差し支えない訳であり、ゆえに歌作者たちは必ずしも「用語の少なき」を憂えるに及ばない。

 しかし、或る文芸分野が当時直面していた語彙や文法の不備は、和歌の場合のように悠長な対応が許されるものではなかった。この分野に携わる人々が言語で表現しなければならない内容は、同時期の文人たちにとって「趣向の変化」に満ちていたどころか、その分野自体が「趣向の変化」の権化でさえあったから。なおかつ、歌作者であれば「趣向の変化」とやらを、自発的な意欲に基づいてマイペイスに追求してゆけばよかったのに対し、その分野の人々にとって、それは圧倒的な勢いで外部から溢れ込んできて、日々深刻な「用語の少なき」状態に彼らを追いやるものだったから。その近接分野というのは、西洋語からの翻訳文芸、とりわけ翻訳詩である。


*      *      *      *      *


 「明治の翻訳王」の異名を取った森田思軒は、半生の苦心談を問われて

第一に困難を覚えたのは言葉の不足なのです。……実際彼の国の文章に就いてこれを日本の言葉に写さうとする時は、日本の言葉の不足を感じる事は実に想像の他です。〈▼16〉

と答えた。西洋文献の翻訳は明治年間に入って、より正確に言えば明治維新の前後からいよいよ本格化し、膨大な量と広汎な領域において進められてゆくこととなった訳だが、こうした営為の中で、森田に限らず翻訳者たちをおしなべて見舞い続けた問題の最たるものこそ、従来の日本語が西洋文献の翻訳先として不備な言語であり、殊に語彙が深刻に不足していたことだったと言ってよい。明治日本は西洋語を、漢籍に対して行ってきたように「読み下し」方式で日本語化しようとはせず、また現在よく多く行われているように、語彙を片仮名に音写して日本語の文章に埋め込もうともせずに、徹底した翻訳主義を取っていた〈▼17〉だけに、これは回避できない重大な問題だった。

 そこで翻訳者たちは、訳語の準備に少なからぬ精力を費やし続けることになったのだが、訳語確保に用いられた方法としてはまず、既に江戸時代後末期の蘭学者によって作られていた語彙の流用が挙げられる。殊に科学技術に関する文献には、彼らが蓄積しておいた訳語を用いるだけで多分に間に合った次第であり、「神経」や「門脈」が『解体新書』訳出過程で杉田玄白が作った語彙であるのを初め、「腺」「膵臓」「水素」「炭素」「塩酸」「硫酸」「重力」「遠心力」などは皆、蘭学者が用い始めた訳語を明治年間の翻訳者が踏襲したことによって現在まで流通しているものである〈▼18〉。

 第二の方法は、既に漢訳された西洋文献から、漢字による訳語を輸入することだった。同時期の中国でも西洋語文献の翻訳が進みつつあったため、これもかなり有効なソースだったのである。この例としては、明治二年以降に箕作麟祥がフランス民法を訳出した際、直前に日本に入っていた漢訳版のウィートン『万国公法』に拠って、「権利」「義務」「主権」といった語彙を得たこと〈▼19〉等が挙げられる。

 そして第三の方法として、新たな訳語の製造が行われていった。箕作の演説によれば、「動産」「不動産」「義務相殺」「未必条件」といった訳語は自身の作であり〈▼20〉、他にも「箕作先生が新奇に拵へた訳字がずいぶんあります。訳字には随分、骨を折つたものです」と佐原純一が語っている〈▼21〉。また西周は学術語、殊に哲学用語を多く訳した人物だが、西により新たに日本語に持ち込まれた語彙のうち「主観」「抽象」「定義」「帰納」等約半数は彼の新造語であって〈▼22〉、その造語法は

哲学原語、英フィロソフィ、仏フィロソフィー、希臘ノフィロ愛スル者、ソフォス賢ト云義ヨリ伝来シ、愛賢者ノ義ニテ其学ヲフィロソフィト云フ。〈▼23〉

というように、語源的意味へ溯った上でその意味を漢字に移すというものだった。

 以上三方法による訳語の確保は新造にせよ流用にせよ、少なくとも江戸時代後末期までは日本人が知らなかった、目新しい語彙を導入する営為だったという共通項で括ることができる。そして、こうした営為は如何にも「文明開化期の翻訳者の業」然としてイメージの良いものだったせいか、森田のような翻訳家自身や後来の語学史家・文学史家により得意気かつ頻繁に言上げされ、語り継がれてきた感がある。しかし、翻訳者たちによる訳語の準備は、これらのように旧知の日本語体系の外側から新語彙を追加してゆく方法に限られていた訳ではない。日本の近代を、革新と復古を一身に抱えた双頭の蛇になぞらえる言説を方々で聞くが、明治年間における訳語確保の歴史も例外ではなく、それは上田敏の言葉を借りれば「古言を復活」〈▼24〉して翻訳の場に用いてゆく過程でもあったのである。そして、訳語の確保方法としての「古言」の復活が最も顕著に認められる分野こそ、前節で言及した翻訳詩なのだった。

# by nazohiko | 2001-04-01 00:01
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# by nazohiko | 2001-04-01 00:00 | ☆旧ブログより論考・批評等