by 謎彦 by なぞひこ
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けふは幸徳秋水の命日なり国民の愛国心は、一旦その好むところに忤うや、人の口を箝するなり、人の肘を掣するなり、人の思想をすらも束縛するなり、人の信仰にすらも干渉するなり、歴史の論評をも禁じ得るなり。 拝啓、幸徳秋水様。 あなたが姿を消された後、 大日本帝国はますますそうなってゆきました。 大日本帝国は既に倒れましたが、 今では海の向こうの中華人民共和国が、 そうした惨状を極めております。 いずれ中華人民共和国が倒れても、 世界のどこかに再び、 見飽きたような嵐が起こるのでしょう。敬具 追伸。 逆説を弄することをお許し下さい。 支配者が「国民の愛国心」を創り出し、 彼ら自身の手で収拾を付け難いほど 凶暴なうねりに育て上げた、その時ですら、 「束縛されるべき思想」や「論評されるべき信仰」が、 彼らの敵として眼前に生きていたという史実は、 むしろ天晴れな話と申せませんか。 #
by nazohiko
| 2024-01-24 00:00
| ◇意見を書く
永遠に、ご無事で。
今日はバイロンの誕生日(1824年)。
私たちは、しばらく黙って、冬の川を見下ろしていた。 「ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。バイロン」 と言い、それから、そのバイロンの詩句を原文で口早に誦して、私のからだを軽く抱いた。 太宰治『斜陽』の、愛すべき迷場面である。 「そのバイロンの詩句を原文で口早に誦して」とあるが、バイロンの詩 "Fare thee well!" から、冒頭部分を抜き出したということらしい。 Fare thee well! and if for ever― Still for ever, fare thee well ― 『斜陽』のこの場面の可笑しみが、詩句の引用に続く「バイロン」の一語にあるのは勿論だ。 #
by nazohiko
| 2024-01-22 00:00
| ◆小説を読む
『南京新唱』100周年
会津八一の歌集『南京新唱』は1924年に刊行されたから、2024年でちょうど100年を迎える。
春陽堂から出た初版は、奥付に「三版」と刷られているが、これはフィクション。初版発行から僅か10日間で、二版どころか三版にまで至ったというのも、短歌の作品集としてはあり得ないことだ。 会津八一の短歌は「オール平仮名」と「分かち書き」が特徴的とされるが、『南京新唱』では未だそうなっていない。本書所収の歌がおなじみの表記に変わったのは、『鹿鳴集』(1940年)に再録された時のこと。 「南京」はナンキョウと読み、奈良を指す。芥川龍之介の小説に出てくるナンキンではない。 ほほゑみて うつつごころ に あり たたす くだらぼとけ に しく もの ぞ なき 会津八一 『鹿鳴集』の表記に従っておく。 以前これを「讃嘆のアクセル全開」と評したが、今はむしろ、仏像を形式名詞ではあれ「もの」と突き放した一抹の冷徹さにスパイスを感じる。 「うつつごころ」も曲者だ。本作では「夢見心地」の意味なのだろうが、この語には「気持ちがしっかり定まった状態」という真逆の語義もある。仮にそこまで意識しながら読まなくとも、「うつつ(現)」の文字は、我々の目にクールに刺さってくることを免れない。 字数の関係で強引にまとめれば、陶酔に 向かうベクトルと覚醒に向かうベクトルが、微妙なバランスを保ちつつ共存している点こそ、本作の魅力だと言えはしないか? 「もの」繋がりで思い起こせば、「おほてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ」の歌も、下句には醒めた自己観察がある。 #
by nazohiko
| 2024-01-19 00:00
| ◆詩歌を読む
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