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君よ知るや「勸世宗親會」(22)

勸世寶貝瞄瞄(世直しベイビー・ミャオミャオ)のことを、
これまで書かないままでいた。





 
今回紹介する曲は、出世作となった「瞄電感應」のMVとライヴ映像。
日本語に訳しにくいタイトルだが、
無理を承知で「ミャオミャオが電撃しちゃうぞ」としておこうか。

「普通に可愛い」容色のおかげもあってか、
勸世宗親會(世直し一族)の中で、彼女の人気は随一のようだが、
歌といい、映像といい、特筆に値するものを私には見出せない。

それはともかく、「瞄電感應」は曲としての人気が、
歌い手の人気を超えて高まり、多くのカバー版を生み出した。
Youtubeを舞台とした、雨後の筍のようなカバー合戦には、
私も興味を惹かれずにいられないところだ。

 
敢えてひとつだけ選ぶなら、許瓊文と賴暐哲によるジャズ風「瞄電感應」。
原曲を自家薬籠中の物としてみせた点では、最も出色のカバーと言ってよい。


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# by nazohiko | 2017-03-03 21:31 | ◆動画を視る

12 Lieder von Franz Schubert


こんな「良い音楽」ばかり聴いていてはいけない。
しかし、たまには聴かなければいけない。

シューベルトの歌曲(全12曲)

  An die Musik D.547
  Im Frühling D.882
  Wehmut D.772
  Ganymed D.544
  Das Lied im Grünen D.917
  Gretchen am Spinnrade D.118
  Nähe des Geliebten D.162
  Die junge Nonne D.828
  An Silvia D.891
  Auf dem Wasser zu singen D.774
  Nachtviolen D.752
  Der Musensohn D.764

歌:エリーザベト・シュヴァルツコップ
ピアノ:エドウィン・フィッシャー
録音:1952年、ロンドン

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# by nazohiko | 2017-03-01 21:38 | ◆音楽を聴く

君よ知るや「勸世宗親會」(21)


勸世美少女娃娃(世直し美少女人形)の新作MV、「愛人的眼淚」(「恋人の涙」)。

やはり新曲ではなく、昨夏発表のアルバム「天生勸世」に収録されていた歌である。
デビューからおよそ1年を経て、そろそろ打ち止めに近づいてきたか?

中国語(北京の言葉)で「愛人」は「配偶者」を意味するが、
台湾語(福建南部と台湾の言葉)では「恋人」を指す。
いずれにせよ、日本語における「愛人」のような語義ではない。

曲のタイトルでは、涙を「眼淚」という中国語風の表現にしてあるが、
台湾語で涙を表す語は「眼屎(バクサイ)」といい、
歌詞の中では、いずれもこの「眼屎」が使われている。
「眼の屎(くそ)」と書いて、何と台湾語では涙を意味するのだ!

「涙」が出てくる歌詞にちなんで、
わざとらしく目薬を差してみせるくだり(1:36)には、大してパンチがないが、
台湾のどこぞの酒場通り(いきなり日本人向けの看板が映る012.gif)で、
荷物を牽きながら歌う勸世美少女娃娃の姿には、
何だか横隔膜をくすぐられるような感触を覚えさせられる。
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# by nazohiko | 2017-03-01 21:36 | ◆動画を視る

ホラティウス『詩論』の本領(2)

そのように、賢明な人は狂気の詩人に触れることを恐れて逃げる。子供らは彼を追い立て、警戒せずにあとをつける。

  (中略)

なぜ彼は詩を書きまくるのか、よくわからない。父祖の遺骨に放尿したせいか、それとも雷が落ちた不吉な場所を穢したせいか――いずれ(に)せよ、たしかに彼は狂っている。そして、あたかも熊のように、邪魔な檻の格子を破ることができたなら、情け容赦なく朗読して、教養のある人もない人も逃げださせるだろう。だが、誰かを捕えたなら掴んで離さず、殺してしまうまで読んで聞かせるだろう――血をいっぱい吸うまで肌から離れまいとする蛭が!

ホラティウス『詩論』は、このように締め括られる(岡道男訳、岩波文庫、以下同じ)。
ここでは、「狂気の詩人」が「彼」という三人称で扱われ、
また、「賢明な人」が「恐れて逃げる」べき存在として言及されている。
文体という面でも、ドタバタ喜劇のようなユーモアがたっぷり振りかけてあるのだが、
それでも、このくだりに、ホラティウス自身の「狂気」が顔を覗かせているのを、
読者は感知せずにいられない。

ホラティウスはここまで、一貫して「賢明な人」の代表者として我々に語りかけ、
「賢明な人」によって安全に発信され、彼らの間で安全に管理されるべきものとして、
詩というコミュニケーション・ツールのありかたを論じてきた……ように見えた。

そんなホラティウスが、『詩論』の最後の最後に至って、
「詩をつくる人」や「詩をつくろうとする欲求」が、決して「狂気」と無縁ではあり得ず、
そうであるが故に、何かの拍子に「邪魔な檻の格子」を破ってしまうものであることを、
「かく言う私自身も、『賢明な人』と『狂気の詩人』の危ういバランスの中で、
 内面を維持しているのだよ」
という仄めかしを添えながら、我々に向かって宣告するのである。

実を言えば、「ホラティウス=『賢明な人』」という単純な図式が成立しないことは、
しばらく前のくだりで、既にチラッと明言されていた。

ああ、わたしはひねくれ者だ、陽春の季節が近づくと薬を飲んで胆汁を吐き出すのだから。そんなことをしなければ、ほかの者がわたしよりすぐれた詩をつくりはしないだろう。

岡氏の訳注に従って、この部分を解釈すれば、
当時通用の医学理論では、4種類あるとされた体液のうち、
胆汁(黒胆汁)が増えすぎてしまうと、狂気を発すると考えられていた。

ホラティウスはここで、自分の体内に胆汁(即ち、狂気の種)が満ち溢れていること、
自身が「狂気の詩人」として暴れ出すのを、故意に抑制しているに過ぎないこと、
そして、ひとたび「狂気の詩人」と化したならば、
誰よりも「すぐれた詩」をつくり得る、並外れたポテンシャルを持っていることを、
「ひねくれ者=敢えて『賢明な人』の道から飛び出さずにいる者」としての、
ほろ苦い自覚と共に、告白しているということになる。

ああ、それにしても、
たとえ一度でも「詩をつくる人」となったことのある者ならば、
「なぜ彼は詩を書きまくるのか、よくわからない」で始まる一連の言葉に、
きっと痛快を覚えることだろう。

そして、そのうちの少なからぬ人数が、
「ああ、わたしはひねくれ者だ」以下いくばくかの言葉にも、共感を覚えるだろう。
厳密に言えば、ホラティウスの「ひねくれ者」宣言に共感する人の中には、
そこに慰めを見出す人もあれば、誇りを見出す人もあるだろう。


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# by nazohiko | 2016-11-05 22:05 | ◆論考を読む

ホラティウス『詩論』の本領

ホラティウスの『詩論(Ars Poetica)』を、
アリストテレスの『詩学(Peri Poietikes)』に比べて
浅薄だとか、卑小だとか評する人たちがいる。

アリストテレスの著作は、
「詩(の本質)とは何か、何であるべきか」を主題としたものであり、
即ち、そこでは "what?" の問いが中心となっている。

ホラティウスの著作は、
「詩とは、どのようなコミュニケーション方式であるか、
 コミュニケーションのツールとして、詩はどのように発信されるべきか」
を主題としたものであり、そこで中心を占めるのは "how?" の問いである。

アリストテレスが、ホラティウスに遥かに先立って、
「筋」「模倣」「統一」などの概念に、発展や深化を施しておいたにも関わらず、
ホラティウスは、それらの言葉を「アリストテレス以前の水準」で用いた等々と、
ホラティウスの著作に、アリストテレスからの「退行」さえ見出そうとする人も、
なかなか後を絶たないようだが……。

もとより同じ軸の上に乗っていないホラティウスの著作に、
アリストテレスという先行研究に対する「進歩」を求めても、無意味なことである。

もうちょっと厳しいことを言っておくと、
アリストテレスが在来の言葉を、独自の定義の下で用いたという歴史上の出来事を、
個々の概念にとっての「発展」や「深化」であったと、無検証のまま認めた上で、
ホラティウスに「退行」のレッテルを貼ろうとする人がいるなら、
そうした人は、二重の意味でお話にならない。

  ※もしかして、もしかすると、アリストテレスの著作こそ、
  ※詩について語ることの歴史(敢えて「系譜」とは呼ばない)の中で、
  ※最も壮大で、最も絢爛たる袋小路なのかもしれない……のだ。

閑話休題。
岩波文庫版に入っている『詩学』『詩論』の合冊で、岡道男氏の訳者解説は、
アリストテレスの著作を「哲学的立場から詩作をとらえている」とし、
ホラティウスの著作を「弁論術に通じる立場から詩作をとらえている」とする。

それはそれで、十分に理のある解釈だと思うが、
私の場合は、岡氏とは異なる視角から、
ホラティウスの所論は、平安時代~鎌倉時代の貴族社会における
和歌のありかたに、期せずして通じる所があるようにピンと来た。

気ままな思い付きの翼を、更に広げてみるならば、
ホラティウスが『詩論』と題する著作を通じて、究極のテーマとしたものは、
詩がコミュニケーションの一手段となるような、何らかの社会的集団の内部で、
ひとりの雅男(みやびを)として生きるための「道」だったのではないか?
逆に言えば、そんな「雅男の道」を指南するためのケースワークとして、
ホラティウスは、詩をめぐる "how" の問いを追いかけてみせたのではないか?

私がここで、わざわざ「雅男」という古語を選んでみたのは、
ホラティウスの著作に語られる(と、私が見受けた所の)「雅男の道」が、
詩のありかたに関する、具体的な認識内容まで引っくるめて、
京のみやこの貴族歌人たちと響き合っているなあ……という印象を、
こういう形でも、表現してみたかったからである。

最後にもう一言。
ヴァーツヤーヤナの『カーマ・スートラ(Kama Sutra)』も、その本質は、
一人前のナーガラカ(nagaraka、「粋人」や「洗練された市民」と訳される)が
身に付けるべき「道」を教えることにあると、私は解釈している。

そうだ、ホラティウスの『詩論』をアリストテレスの『詩学』と比べるよりも、
いっそのこと『カーマ・スートラ』と比較する方が、よほど実のある議論になるだろう!


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# by nazohiko | 2016-11-05 18:34 | ◆論考を読む