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ホラティウス『詩論』の本領(2)

そのように、賢明な人は狂気の詩人に触れることを恐れて逃げる。子供らは彼を追い立て、警戒せずにあとをつける。

  (中略)

なぜ彼は詩を書きまくるのか、よくわからない。父祖の遺骨に放尿したせいか、それとも雷が落ちた不吉な場所を穢したせいか――いずれ(に)せよ、たしかに彼は狂っている。そして、あたかも熊のように、邪魔な檻の格子を破ることができたなら、情け容赦なく朗読して、教養のある人もない人も逃げださせるだろう。だが、誰かを捕えたなら掴んで離さず、殺してしまうまで読んで聞かせるだろう――血をいっぱい吸うまで肌から離れまいとする蛭が!

ホラティウス『詩論』は、このように締め括られる(岡道男訳、岩波文庫、以下同じ)。
ここでは、「狂気の詩人」が「彼」という三人称で扱われ、
また、「賢明な人」が「恐れて逃げる」べき存在として言及されている。
文体という面でも、ドタバタ喜劇のようなユーモアがたっぷり振りかけてあるのだが、
それでも、このくだりに、ホラティウス自身の「狂気」が顔を覗かせているのを、
読者は感知せずにいられない。

ホラティウスはここまで、一貫して「賢明な人」の代表者として我々に語りかけ、
「賢明な人」によって安全に発信され、彼らの間で安全に管理されるべきものとして、
詩というコミュニケーション・ツールのありかたを論じてきた……ように見えた。

そんなホラティウスが、『詩論』の最後の最後に至って、
「詩をつくる人」や「詩をつくろうとする欲求」が、決して「狂気」と無縁ではあり得ず、
そうであるが故に、何かの拍子に「邪魔な檻の格子」を破ってしまうものであることを、
「かく言う私自身も、『賢明な人』と『狂気の詩人』の危ういバランスの中で、
 内面を維持しているのだよ」
という仄めかしを添えながら、我々に向かって宣告するのである。

実を言えば、「ホラティウス=『賢明な人』」という単純な図式が成立しないことは、
しばらく前のくだりで、既にチラッと明言されていた。

ああ、わたしはひねくれ者だ、陽春の季節が近づくと薬を飲んで胆汁を吐き出すのだから。そんなことをしなければ、ほかの者がわたしよりすぐれた詩をつくりはしないだろう。

岡氏の訳注に従って、この部分を解釈すれば、
当時通用の医学理論では、4種類あるとされた体液のうち、
胆汁(黒胆汁)が増えすぎてしまうと、狂気を発すると考えられていた。

ホラティウスはここで、自分の体内に胆汁(即ち、狂気の種)が満ち溢れていること、
自身が「狂気の詩人」として暴れ出すのを、故意に抑制しているに過ぎないこと、
そして、ひとたび「狂気の詩人」と化したならば、
誰よりも「すぐれた詩」をつくり得る、並外れたポテンシャルを持っていることを、
「ひねくれ者=敢えて『賢明な人』の道から飛び出さずにいる者」としての、
ほろ苦い自覚と共に、告白しているということになる。

ああ、それにしても、
たとえ一度でも「詩をつくる人」となったことのある者ならば、
「なぜ彼は詩を書きまくるのか、よくわからない」で始まる一連の言葉に、
きっと痛快を覚えることだろう。

そして、そのうちの少なからぬ人数が、
「ああ、わたしはひねくれ者だ」以下いくばくかの言葉にも、共感を覚えるだろう。
厳密に言えば、ホラティウスの「ひねくれ者」宣言に共感する人の中には、
そこに慰めを見出す人もあれば、誇りを見出す人もあるだろう。


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by nazohiko | 2016-11-05 22:05 | ◆論考を読む

ホラティウス『詩論』の本領

ホラティウスの『詩論(Ars Poetica)』を、
アリストテレスの『詩学(Peri Poietikes)』に比べて
浅薄だとか、卑小だとか評する人たちがいる。

アリストテレスの著作は、
「詩(の本質)とは何か、何であるべきか」を主題としたものであり、
即ち、そこでは "what?" の問いが中心となっている。

ホラティウスの著作は、
「詩とは、どのようなコミュニケーション方式であるか、
 コミュニケーションのツールとして、詩はどのように発信されるべきか」
を主題としたものであり、そこで中心を占めるのは "how?" の問いである。

アリストテレスが、ホラティウスに遥かに先立って、
「筋」「模倣」「統一」などの概念に、発展や深化を施しておいたにも関わらず、
ホラティウスは、それらの言葉を「アリストテレス以前の水準」で用いた等々と、
ホラティウスの著作に、アリストテレスからの「退行」さえ見出そうとする人も、
なかなか後を絶たないようだが……。

もとより同じ軸の上に乗っていないホラティウスの著作に、
アリストテレスという先行研究に対する「進歩」を求めても、無意味なことである。

もうちょっと厳しいことを言っておくと、
アリストテレスが在来の言葉を、独自の定義の下で用いたという歴史上の出来事を、
個々の概念にとっての「発展」や「深化」であったと、無検証のまま認めた上で、
ホラティウスに「退行」のレッテルを貼ろうとする人がいるなら、
そうした人は、二重の意味でお話にならない。

  ※もしかして、もしかすると、アリストテレスの著作こそ、
  ※詩について語ることの歴史(敢えて「系譜」とは呼ばない)の中で、
  ※最も壮大で、最も絢爛たる袋小路なのかもしれない……のだ。

閑話休題。
岩波文庫版に入っている『詩学』『詩論』の合冊で、岡道男氏の訳者解説は、
アリストテレスの著作を「哲学的立場から詩作をとらえている」とし、
ホラティウスの著作を「弁論術に通じる立場から詩作をとらえている」とする。

それはそれで、十分に理のある解釈だと思うが、
私の場合は、岡氏とは異なる視角から、
ホラティウスの所論は、平安時代~鎌倉時代の貴族社会における
和歌のありかたに、期せずして通じる所があるようにピンと来た。

気ままな思い付きの翼を、更に広げてみるならば、
ホラティウスが『詩論』と題する著作を通じて、究極のテーマとしたものは、
詩がコミュニケーションの一手段となるような、何らかの社会的集団の内部で、
ひとりの雅男(みやびを)として生きるための「道」だったのではないか?
逆に言えば、そんな「雅男の道」を指南するためのケースワークとして、
ホラティウスは、詩をめぐる "how" の問いを追いかけてみせたのではないか?

私がここで、わざわざ「雅男」という古語を選んでみたのは、
ホラティウスの著作に語られる(と、私が見受けた所の)「雅男の道」が、
詩のありかたに関する、具体的な認識内容まで引っくるめて、
京のみやこの貴族歌人たちと響き合っているなあ……という印象を、
こういう形でも、表現してみたかったからである。

最後にもう一言。
ヴァーツヤーヤナの『カーマ・スートラ(Kama Sutra)』も、その本質は、
一人前のナーガラカ(nagaraka、「粋人」や「洗練された市民」と訳される)が
身に付けるべき「道」を教えることにあると、私は解釈している。

そうだ、ホラティウスの『詩論』をアリストテレスの『詩学』と比べるよりも、
いっそのこと『カーマ・スートラ』と比較する方が、よほど実のある議論になるだろう!


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by nazohiko | 2016-11-05 18:34 | ◆論考を読む

プーランクの「オルガン、絃楽、ティンパニのための協奏曲」



フランシス・プーランクの「オルガン、絃楽、ティンパニのための協奏曲」。

オルガンと管絃楽が対等に組み合わされるタイプの楽曲は、
オルガンのパートが(悪い意味で)デジタル、かつ大味に聞こえてしまいがちだ。
私のようにオルガンに親しみの薄い者にとっては、
極端な言い方をすれば「管絃楽の邪魔」でしかない代物として、
音の前景に立ち塞がるようなイメージを抱かされることさえ、しばしばある。

この、プーランクが1936年に完成した協奏曲は、
ぜひとも楽譜の画像を目に入れながら、演奏を聴いていただきたい。
楽曲の各部分(或いは一瞬一瞬)において、
そこに設けられた「響きの構造」や、作曲者が「各楽器にやらせたかったこと」が、
ひとつひとつの音符を丁寧に追いかけることなく、
楽句や和音のかたちを漫然と俯瞰しているだけでも、
手に取るように分かる、分かる、分かる。

この曲は、オルガンの「如何にもそれらしい」風情の独奏に始まり【0:00】、
最後も、オルガンが強奏で和音を伸ばしているところに、
管絃楽が「ジャン!」の一撃をプラスするというもので【22:43】、
とにかくオルガンの待遇が良い。

ちょっとやり過ぎの感さえある、音栓(ストップ)の取っ替え引っ替えぶりを含めて
(例えば、唐突にクラリネットもどきの音色が用いられる【16:30】)
プーランクはこの曲の制作過程において、
まずはオルガンに「オルガンっぽい音楽」を、存分にやらせることにしたのだろう。
そんな趣向の背後に、オルガン音楽の伝統に対するパロディ精神があったか否かは、
私はこの曲を幾度も聴き返してはいないので、今のところ判断が付かない。

プーランクの巧さが光るのは、オルガンという尊大な独奏楽器を、
管絃楽の陣地に、それほどまでに懐深く受け入れてみせた上で、
或る時には、オルガンには到底「ついてゆけない」音色及び運動というべき、
弦楽器による極高音域の走句を、管絃楽の側から閃かせてみるし【7:35など】、
また或る時には、オルガンと管絃楽の響きを「仲介する」ものとして、
低音絃楽器の弾奏や、ティンパニを活用する【0:23など】というバランス感覚である。

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by nazohiko | 2016-11-05 00:16 | ◆音楽を聴く

君よ知るや「浅草豆花大王」(2)

しばらく前に書いた、「君よ知るや『浅草豆花大王』」という文の続き。

秋らしくなった頃合を見計らって、
今度は「焼仙草」という台湾の甘味を食べに行ってきた。
「仙草」というのは、もともと紫蘇科に属する植物の名前で、
台湾では、北西部の新竹県関西鎮(客家人の住む地域)が主要な産地だ。
その葉や茎から煮出した汁に、とろみと苦み(やや珈琲に似る)がある。

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夏は冷たいゼリーに作り(固さを確保するために澱粉などを足す)、
シロップをかけた「仙草凍」として食べ、
冬は葛湯状の甘いスープにして、豆や団子などを加えたものを啜る。
これが「焼仙草」であり、ここでいう「焼」は「熱い」というほどの意味。
近年の台湾では、仙草を用いたペットボトル飲料もコンビニでよく見かける。

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仙草は、所謂スイーツのために用いられるだけでなく、
干したものを、「仙草乾」と呼んで薬膳の材料にするし、
もっと簡便な利用法としては、
葉を熱湯で煎じただけの健康飲料「仙草茶」があり、ティーバッグも売られている。

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薬膳や健康飲料の材料とする場合には、夏季の健康増進が主な目的になるのだが、
他の時季に口にするにも一応適当なものとされ、
現に焼仙草は、秋冬の台湾において定番のホット・デザートとなっている。

「浅草豆花大王」で私は、メニューに載ったばかりだという焼仙草に、
具として、湯圓(白玉団子)、地瓜圓(薩摩芋の団子)、粉圓(黒いタピオカ)を選んだ。
写真の下方に、白くわだかまったものが見えるのは、
凝固の度合を高めるために加えた、植物性の成分が泡立っているのである。

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ちなみに、豆花も美味しかった。
具は、落花生(煮たもの)、薏仁(鳩麦)、小豆の3種である。
この店では豆や穀物を固めに煮る流儀のようだが、特に小豆の食感が気に入った。

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店の名前にもなっている「豆花」を、本場の水準で味わえる店として、
「浅草豆花大王」が貴重な場であることは、(幸か不幸か)今なお変わらぬ状況だが、
更に焼仙草まで、きちんとした形で出してくれる店となると、
いよいよ珍しいと言わざるを得ず、
そうであるからには、応援と直言を申し上げずにいられない。

焼仙草の温度が、私にはぬるすぎるように思われたが、
それは、この店のやりかたとして受け入れておくとしても、
3種類の具が、噛むと冷たさを覚えるほどの温度であったのは興醒めである。

台湾で食べる焼仙草は、熱々の状態で供されるので、
具をあらかじめ加熱していなくても、口に入れる時分には十分温まっているものだ。
ぬるめの温度で焼仙草を出すのが、店のこだわりであるならば、
具をいったん湯通ししてから、焼仙草と混ぜるくらいの心遣いを見せてほしい。

日本における台湾スイーツ店の風雲児として、
細かいところに気を抜かずに、これからも道なき道を邁進してくれることを望む。

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by nazohiko | 2016-11-04 15:01 | ◇見聞を誌す