by 謎彦 by なぞひこ
by Nazohiko


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偶成(某国の定宿にて)

中期謎彦はいつよりはじまるか武田教授に基準値を乞ふ

前期謎彦はどこまでしづむのか「おいしい水」に充つる臓器を

後期謎彦をあふげば数学にいはゆる「予想」ほどの梅が香
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by nazohiko | 2013-03-18 01:00 | ◇詩歌を作る

謎太郎の日記(9)

 しばらく前から、かつて留学していた街に逗留している。1年に何度か、ここに来て自分をリセットするのだ。とはいえ所謂ヴァカンスではなく、マックス・ヴェーバーのいう"Beruf"のための用事を次々とこなすのが、滞在の主たる目的なのだが。否、それこそが、私にとって最上のヴァカンスだとも言えるか。

 ここで学んだことを、私はストレートに自分の"Beruf"と為し得た。この街と、この街に暮らす恩師や旧友は、日々の執務の中でつい忘れかけてしまうその幸せを、力強く私に思い出させてくれる。それもまた、私の要する「リセット」の1つなのだ。

 よく学び、よく遊べ……今日もまた。
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by nazohiko | 2013-03-16 09:06 | ◇感想を綴る

ありがとうサヴァリッシュ翁

 長年にわたってNHK交響楽団を指揮したヴォルフガング・サヴァリッシュが、今年の2月下旬に逝去していたことを、昨日放送された追悼番組で知った。

 サヴァリッシュの演奏は堅実にして優雅、そして間違いなく昂奮を与えてくれた。中学生の頃にクラシック音楽を聴き始めた私は、NHK-FMで中継されるN響の定期演奏会を欠かさずエア・チェックし、頻繁にその指揮台に立っていたサヴァリッシュから、音楽というものを少しずつ教えられたような気がする。

 私にとって最も印象深いサヴァリッシュの演奏は、N響の第1000回定期演奏回で採り上げられたメンデルスゾーンのオラトリオ「エリヤ」と、バイエルン国立歌劇場で上演されたワーグナーの「ニーベルングの指環」だ。最も頻繁に耳を傾けるのは、フィラデルフィア管弦楽団と共演した一連のリヒャルト・シュトラウス作品である。

 ありがとう、サヴァリッシュ翁!
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by nazohiko | 2013-03-10 16:30 | ◆音楽を聴く

キンタロー。

「キンタロー。」という芸人が、面白くてたまらん!
名前と顔とダンスと芸の内容の「不調和の調和」が絶品である。
http://www.youtube.com/watch?v=6vFycyYPRsY

私が応援する妙齢女性のお笑い芸人は、
他に「にしおかすみこ」と「いがわゆり蚊」である。

http://www.youtube.com/watch?v=3nGV4Ejab4U
http://www.youtube.com/watch?v=cR0R8L0d-2A

http://www.youtube.com/watch?v=kSKy4I2671A
http://www.youtube.com/watch?v=CKgZ_07W3C8

負けるな!
でも、中途半端な勝ち方は見せてくれるな!

頼んだぞ!
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by nazohiko | 2013-03-05 23:35 | ◆動画を視る

L'ho perduta, me meschina!

 モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」は全24曲から構成されるが、そのほぼ全てが長調を主体とする。苦しみや不安や焦燥までも長調によって描き出してしまう、巨匠の腕前には感嘆する他なく、またそうした瞬間に、あくまで長調音楽の範囲内で出現させられる「陰影」の印象深さには、下手な短調音楽が束になっても敵わないと思うが、それはさておき、第4幕の冒頭にたった1つだけヘ短調の曲を置き、それまで出番の少なかった少女バルバリーナに歌わせるという趣向と、そしてその小さなカヴァティーナ"L'ho perduta, me meschina!"を、私はこよなく愛する。

 僅か30小節余りで途切れてしまう上に、歌っている内容も「預かったピンをなくしてしまった……どうしよう?」というに過ぎないため、オペラ史上屈指の佳曲でありながら、従来ソプラノ歌手のアリア集に収められたり、独唱会の演目に加わったりすることはめったになかったと言える(この点は、オテロの凱旋宣言"Esultate!"と共通している)。パトリシア・プティボンが「恋人たち」と題して、ハイドンやグルックやモーツァルトのアリアを取り集めたCDに入っているのが、私の知る数少ない例の1つである。

 これに対して、Youtubeにはバルバリーナのあのヘ短調が、意外なほどたくさん転がっているではないか! 今晩その事に気付かされてから、昂奮に任せて次から次へと、数多のバルバリーナたちに"L'ho perduta!"の嘆声を上げさせてみたが、その作業はまだまだ終わりそうにない。

http://www.youtube.com/results?search_query=L%27ho+perduta+mozart&oq=L%27ho+perduta+mozart&gs_l=youtube.3...59109.60703.0.61281.7.6.0.1.1.0.125.609.3j3.6.0...0.0...1ac.1._vi-xsls5Iw

 私がこのカヴァティーナについて求める歌唱のあり方は、独立の1曲として栄養感たっぷりに歌い上げることでもなく、プリマ・ドンナの十八番として円熟味いっぱいに喉を効かせることでもなく、例えばベーム指揮の1968年録音盤におけるバルバラ・フォーゲルの表現が、今のところ理想に最も近い(というか、それが私が最初に出会ったバルバリーナなのだけれども)。「フィガロの結婚」の初演でバルバリーナ役を務めたアンナ・ゴットリープが、当時12歳(!)であったという事実が、もっと現代のバルバリーナたちに深く意識されるべきではないか。因みにゴットリープはその5年後、17歳で「魔笛」のパミーナ役を初演することになる。

 フォーゲルのすばらしい歌声はYoutubeに出ていないようなので、今すぐ皆様にお聴かせできないのが残念だが、代わりに次善の歌唱として、同じベームの指揮により、それぞれマリア・ヴェヌーティとジャネット・ペリーがバルバリーナを歌う映像を、以下にご紹介しておくことにしよう。どちらの映像でも、指揮・歌唱共に1968年録音盤に比べて芝居がかっているのが玉に傷である。

マリア・ヴェヌーティ
http://www.youtube.com/watch?v=h_e58H7xmII

ジャネット・ペリー(46:28より)
http://www.youtube.com/watch?v=H9CDJoygw4w

 このカヴァティーナを管楽で演奏している映像も、Youtubeの中に見つけた。著名なアリアやアンサンブルに事欠かない「フィガロの結婚」の中で、わざわざこの小曲が管楽にアレンジされるのも、なかなか珍しいことではあるまいか。

Trio Eccentrico(フルート・クラリネット・ファゴット合奏版)
http://www.youtube.com/watch?v=S2FuctUfRqA
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by nazohiko | 2013-03-03 23:05 | ◆音楽を聴く

ハイドンの交響曲第60番ハ長調"Il Distratto"(4)

 音量を上げてじっくりと向き合うにも、音量を絞って執務のBGMとするにも十分に適するという音楽は、なかなか見つかるものではない。バッハとハイドンの器楽曲は、そうした意味において「世界の名曲」の頂上に立つものだろう。

 思えば、両者は意外に似た者同士なのである。例えば「中庸の健康美」と「それだけでは済まないもの」や、「続きを予測できる安心感」と「予想を裏切られる快感」が、バランス良く共存していること。更に、これはBGMの条件として重要なのだが、原則として音量や速度の振り幅が大きくないこと。

 なお、「歌唱を含む楽曲は、文章を書いたり絵画を描いたりする際のBGMに適さない」と言われることがあるけれども、それはあらゆる場合に当てはまる真理ではない。なおかつ、歌詞に用いられた言語を、聴き手が十分に聴き取れるのか、或る程度までなら意味を掴めるのか、何のことやら見当も付かないのかによっても、条件は異なるというものだ。

 それに……仮にモーツァルトの作品でBGMを固めるとして、颯爽たる交響楽やセレナードが暫く続いた後に、バルバリーナが"L'ho perduta, me meschina..."と呟く36小節のカヴァティーナ(ヘ短調!)が、ふと現れるというのも悪くないではないか?
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by nazohiko | 2013-03-02 01:02 | ◆音楽を聴く

承前

 このように考えている時に、ふと思い出した文章がある。長谷川如是閑(1875-1969)が、『万葉集』の冒頭に置かれた伝・雄略天皇作の歌を論じたものだ。

  籠もよ み籠持ち
  掘串もよ み掘串持ち
  この岳に 菜摘ます児
  家聞かな 告らさね
  そらみつ 大和の国は
  おしなべて われこそ居れ
  しきなべて われこそ座せ
  われにこそは告らめ 家をも名をも

 詩想が句を追って昂ぶりゆくのに、ぴったりと寄り添うかのように、この歌は概して、だんだんと1句の音数が多くなる。長谷川は、かくも自在に韻律を駆使できる者が稀少である故に、やがて「和歌」の形は、長歌(五七五七五七五七……七)と短歌(五七五七七)に固定されてゆく他なかったのだと述べる。

 私の言葉でその後を続けるならば、そうして「和歌=定型詩」という図式が出来上がってからは、まずは韻律において、やがては内容面においても、「和歌らしい作品」を捻り出そうとして自らを「定型」に填め込みたがる者たちが、果てしなく量産されることになったのである。
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by nazohiko | 2013-03-01 00:53 | ◆音楽を聴く