by 謎彦 by なぞひこ
by Nazohiko


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会いたかった~!(9)

※先の記事「会いたかった~!(8)」より続く。

 田渕句美子氏の着眼には、それ自体として魅力を覚えるし、このような語りが生まれた背景に関する氏の洞察にも、私は概して首肯できる。しかし、宮内卿の歌が『新勅撰和歌集』以後の勅撰和歌集に僅少であるという事実を、「後世の評価は低い」「勅撰集の世界でしだいに忘れられていく」と速断した氏の記述には、異論を禁じ得ない。

 『新古今和歌集』の約30年後に『新勅撰和歌集』が成ったわけだが、だからといって、宮内卿の歌を15首も散りばめた『新古今和歌集』が流布を停止したわけでも、読者を失ったわけでもない。それ以後に現れた計12集の勅撰和歌集も、やはり『新古今和歌集』という巨峰を人々の視界から拭い去る力など、ついぞ持ち得なかったのである。少なくとも『新古今和歌集』入集作に関する限り、彼女の歌は長らく「現役」の読書対象であり続けたと言える。

 また、『新勅撰和歌集』以後の勅撰和歌集が、仮に後鳥羽上皇が『新古今和歌集』の隠岐本を制作した時のように、「『新古今和歌集』所収の宮内卿作品から、各集の撰者の眼鏡に適うものだけを抜き出す」という方式で彼女の歌を採録したのならば、入集作が『新古今和歌集』に比べて激減したという事実は、田渕氏の述べるように、彼女が「後世には低評価に甘んじた」「勅撰集の世界でしだいに忘れられた」ことをストレートに意味するだろう。しかし、実際の所はそうではない。『玉葉和歌集』に至ってようやく勅撰和歌集に入った「時雨つる木の下露はおとづれて山路の末に雲ぞなり行く」について、氏自身が「その清新で独創的な自然把握を京極派が評価した」と書いているように、後世において勅撰和歌集を編纂した者たちは、宮内卿の歌を各自の眼力によって時々刻々と捉え直し、その魅力の「再発見」を重ねていったのである。彼女の歌は勅撰和歌集の撰者たちにとっても、やはり「現役」のセレクト対象であり続けたのだった。

 忘れられた人物が、ゴシップの主人公にされるだろうか?
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by nazohiko | 2013-02-06 00:30 | ◆詩歌を読む

再び「年の内に春は来にけり」

年の内に春は来にけりひととせを去年とや言はむ今年とや言はむ(在原元方)

 たった今、旧暦12月の内に立春を迎えた。今日2月4日は、旧暦12月24日に当たる。5日後の2月9日が、旧暦12月29日の大晦日となり、翌2月10日が、旧暦1月1日の元旦となる。旧暦において、1ヶ月は29日または30日から成るので、12月31日という日付は存在しない。

 ここ10年の範囲で「年内立春」があったのは2005年・07年・08年・10年であり、今後は2015年・16年・18年・19年・21年の立春が、旧暦の元旦よりも先に巡ってくる。珍しい現象でも何でもない。但し、立春が旧暦1月1日と重なる場合は稀少であり、前回そうであったのは1992年、次回そうなるのは2038年のこと。

(参考記事:http://japondama.exblog.jp/19122781/
(参考記事:http://japondama.exblog.jp/19123207/
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by nazohiko | 2013-02-04 00:08 | ◆詩歌を読む

会いたかった~!(8)

みやこにも ありけるものを さらしなや はるかにききし おばすてのやま
古今著聞集 宮内卿は甥にてありける人に名たちし也。をとこかれがれになりにけるとき、よみ侍りける/都にも有けるものをさらしなやはるかにきゝしをばすての山(巻第八・好色第十一)

 田渕句美子氏は『新古今集:後鳥羽院と定家の時代』(角川選書、2010)の中で、「宮内卿がこんな凡々たる歌を詠んだだろうか」と述べて、このエピソードの史実性に疑いを呈する。その上で、このような語りが生まれた背景に洞察を巡らせ、「彼女自身が早世したこと」「彼女の出身が権門でも歌道の家でもなかったこと」「彼女を取り立てた後鳥羽上皇も既に没していたこと」「『新勅撰和歌集』以後の勅撰和歌集に、彼女の歌が僅かしか採られなくなったこと」の4点を指摘している。『古今著聞集』の成立した1254年(宮内卿の没後約50年)までには、彼女に関する醜聞を書き立てても、筆者が不利益を被る心配がなくなっていたということだろう。
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by nazohiko | 2013-02-02 00:38 | ◆詩歌を読む

会いたかった~!(7)

 勢いに乗って、宮内卿に言及した論考や評論をいろいろと読み進めたり、既読の文章を読み返したりしているが、彼女の歌に対する諸家の評価には、要約すれば「『独創的』で『絵画的』な魅力を持つ一方で、『理知的』に過ぎて『叙情性』に欠ける」という所に落ち着くものが多いようだ。

 彼女の作品は、本当に「絵画的」であるだけか? 本当に「『理知的』に過ぎる」のか? 「理知的」な歌は必ず「叙情性」に欠けてしまうのか? 私の裡には「違和感」が萌しているが、それを「異論」として育て上げるためには、もう少し時間を要しそうである。
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by nazohiko | 2013-02-01 22:39 | ◆詩歌を読む