by 謎彦 by なぞひこ
by Nazohiko


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オフィーリアとマクベス夫人

 松岡和子『「もの」で読む 入門シェイクスピア』(ちくま文庫、2012〈原著2004〉)は、シェイクスピアの各戯曲を、それらに登場する特徴的な「もの」に焦点を当てて読み解いてゆく短文集「シェイクスピア「もの」語り」と、女性の登場人物を次々に取り上げる「シェイクスピアの女性たち」の2部分から成る。

 同書の大部分を占める「シェイクスピア「もの」語り」から、私はあまり教えられる所がなかったのに対して、精彩を覚えたのは、むしろ附録的な「シェイクスピアの女性たち」の中の、「ガートルードとオフィーリア」と「マクベス夫人」の2篇である。

 松岡氏は指摘する。『ハムレット』の所謂「尼寺の場」でオフィーリアが発する台詞の「文体」には、語彙や語り口において父ポローニアスと通じるものがある。そして、こうした「オフィーリアらしくない」要素が、彼女の言葉が本心から出たものではなく、父にそうと言わされたものであることを暗示するのだ。それから、『ハムレット』全篇を通じて、オフィーリアの台詞には"I"(私)を主語とする文が少なく、また「尼寺の場」に続く登場場面である「劇中劇の場」では、ハムレットの突っ込みに対して、ほとんど「はい」や「いいえ」でしか答えないのだが、狂乱状態に陥ることで「自由」を獲得してからの彼女は、一転して命令文、即ち「自分の意志を通そうとする姿勢」に溢れた言葉を多く用いるようになる。

 『マクベス』で強い存在感を放つマクベス夫人については、彼女とその夫が王位奪取という野望において「一心同体」の結び付きにあることを、劇中の一連の事件をめぐって夫と交わされる対話の中に、幾度も現れる"we"(我々)という主語が如実に示しているのだという。更に、シェイクスピア劇の主役級登場人物の内で、マクベス夫人のみ名が付けられていない事実に注目して、松岡氏は、彼女がどこまで行ってもマクベスの「夫人」であるということが、二人の結び付きの堅さと、それが解けた時(バンクォー殺害の立案・実行からマクベス夫人が外されて以後)の両者の寄る辺なさを象徴するのだと述べる。
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by nazohiko | 2013-01-17 00:56 | ◆論考を読む

『塔』2013年1月号

特集「澤辺元一インタビュー」より。

永田(※永田和宏先生) 謎彦とか、行き場のない不思議な人が澤辺さんのとこに集まったよね。

時は来た……それだけだ……。
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by nazohiko | 2013-01-16 00:03 | ◇感想を綴る

断片たちの向こうに見える「ソクラテス以前」

 廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫、1997〈原著1987〉)を読んだ。

 所謂「ソクラテス以前」のギリシア思想は、「断片」と総称される資料によってしか知ることができない。その1種は、思想家本人の著作が他者の著作に引用されるなどして、断片的に伝世したものであり、もう1種は、他者による要約や言及を通して、思想家本人の書いた言葉や、話した言葉の内容を窺い得るものである。なおかつ、廣川氏によれば、それら「断片」たちの多くは、ソクラテスの孫弟子であるアリストテレスによって収集されたおかげで、幸いにも散佚を免れたものである。アリストテレスに省みられなかった思想家や著作は、その大半がもはや我々の手の届かない世界に去ってしまったというわけだし、また「ソクラテス以前」の思想史を復元しようとする営みは、アリストテレス自身の思想や思想史観に影響されて、必ずしも実状に即しない航跡を作図してしまう危険性が高いと言えるから、事態はいよいよ厄介である。

 廣川氏は、アリストテレスが「ソクラテス以前」の思想家を軒並み「自然学者」に過ぎない(アリストテレスの定義に適う「哲学者」ではない)と断じたことに疑念を呈し、彼らが「神的なもの」「自己の内的世界」「国家・社会の問題」等にも強い関心を懐いていたことを、残された「断片」の読み直しを通して主張すると共に、そうした観点から、思想家たちの影響関係についても定位を試みる。文中に提示された幾つかの「断片」のみによっては、氏の描き出す各思想家の姿に説得力が欠けると思われた箇所や、氏による「断片」の解釈に根拠不足を覚えてしまった箇所もあるが(いずれも、私が予備知識に乏しい故の困惑に過ぎないのかもしれない)、かつてアリストテレスによって嵌められた枠組には収まりきらない「ソクラテス以前」の思想の流れというものを、朧気ながらも私なりに把握することができたようであり、読後感の針先は「満足」の側に傾いている。

 同書は、前半部分が廣川氏による論考、後半部分が「ソクラテス以前」の思想家たちに関する「断片」の内で、彼ら自身の著作が部分的に現存するものの(現代日本語訳による)全集となっている。氏が論考の中で挙げたものも、挙げなかったものも取り混ぜて、この壮観なる「断片」集成を読み進めてゆくのが、氏の論考に向き合うのに負けず劣らず楽しかった。何らかの思想を読み出すにはあまりに短い、片言隻語が延々と続く頁では退屈に陥ることもしばしばだったが、その一方で、ヘラクレイトスやデモクリトスの篤実かつ明晰な語り口や、薄氷の張った湖水の如きパルメニデスの詩句、読む者の胸を締め付けるような、熱情と切なさに満ちたエンペドクレスの詩句からは、片時も目を離すことができなかった。

 「断片」全集の部で惜しむらくは、思想家本人の言葉をそのまま伝える「真性断片」のみが収録されたため、タレスやピュタゴラス等、他者による思想内容の記録のみが現存する者が一律に省かれてしまったことだ。同書前半の論考部分には、そうした他者の筆になる「断片」を資料として用いた箇所も多かっただけに、せめて廣川氏自身が文中に挙げたものだけでも、附録のような形で改めて列挙してほしかったと思う。
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by nazohiko | 2013-01-14 23:57 | ◆論考を読む

巳年の年賀状

 巳年というのは、つまり蛇の年というわけだが、蛇は十二支の動物の中で、年賀状や縁起物のデザインが成功しにくいものの筆頭格だろう。大抵の場合、蛇から恐ろしげなイメージや不気味なイメージを除去しようとする一方で、手を替え品を替えして、可愛らしい造形を与えようとするのだが、どっち付かずの結果に終わってしまう。

 今年の松の内に方々から頂戴した年賀状の中で、思わず「これは!」と膝を打ったのは、サン=テグジュペリの『星の王子さま(Le Petit Prince)』に添えられている、象を飲み込んだ大蛇の断面図を真ん中に刷り込んで、背景は真っ白、文字も最小限あるのみ(新年を祝う四字熟語と、送り主のお名前とご住所)という1枚だ。蛇という奴からどうしても払拭できない、おどろおどろしいイメージを敢えて活かしつつ、気宇壮大なユーモアが新年の祝意にも通じるような、グッド・センスな版面に感服した。
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by nazohiko | 2013-01-07 23:02 | ◇感想を綴る