by 謎彦 by なぞひこ
by Nazohiko
最新の記事
4月1日
at 2017-04-01 21:12
君よ知るや「カニのタルト」
at 2017-03-31 15:18
君よ知るや汝窯の青磁水仙盆
at 2017-03-09 23:15
君よ知るや台湾紅茶と台湾ウィ..
at 2017-03-08 21:30
当たり前ポエムと言えば……。
at 2017-03-08 00:32
カテゴリ
全体
◆小説を読む
◆小説を読む(坊っちゃん)
◆論考を読む
◆詩歌を読む
◆漫画を読む
◆動画を視る
◆音楽を聴く
◆展覧を観る
◇詩歌を作る
◇意見を書く
◇感想を綴る
◇見聞を誌す
☆旧ブログより論考・批評等
☆旧ブログより随想・雑記等
☆旧ブログより韻文・訳詩等
☆旧ブログより歳時の話題
★ご挨拶
以前の記事
2017年 04月
2017年 03月
2016年 11月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 03月
2015年 07月
2015年 05月
2015年 02月
2014年 04月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 08月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2003年 08月
2003年 07月
2001年 04月
検索
その他のジャンル


<   2013年 01月 ( 14 )   > この月の画像一覧

塚本邦雄の一言

  私はほぼ一昔前、
  有吉保教授所蔵・編纂のものを、編者から拝領して、
  はじめて、その(注:水無瀬恋十五首歌合を指す)全貌を知った。
  門外漢は、専門家の推察を越えるような、
  迂遠極まる古典享受の手続が要る。

  【中略】

  このやうな例は他にもあまたあり、
  私達のやうに善本・詳細資料に恵まれず、
  隘路を嘆き、暗中模索、儚い足掻を続けてゐる者も多からう。

 塚本邦雄『花月五百年:新古今天才論』(角川書店、1983)より。自宅のコンピュータを用いて、必要資料の所在を突き止めたり、資料そのものを入手したりすることが未だ不可能だった時期の、更に「一昔前」のことであるとはいえ、塚本のように「何でも書斎に持っていそうな人」が、実はこのような不便をかこっていたという発言に驚いた。そして、この発言には、今でも同感させられる。
[PR]
by nazohiko | 2013-01-31 23:30 | ◆論考を読む

会いたかった~!(6)

 宮内卿の最初の作品群(現存する限りにおいて)である「正治二年第二度百首和歌」(1200年)から、『新古今和歌集』には僅か1首「たつた山あらしや嶺によわるらんわたらぬ水も錦たえけり」しか採られなかった。

  外山なる楢の葉までははげしくて尾花が末によわる秋風
    (『続古今和歌集』〈1265年〉秋上)

  寂しさを訪ひこぬ人の心まであらはれそむる雪のあけぼの
    (『新続古今和歌集』〈1439年〉冬)

  思ふより心の闇も晴れぬべし鷲の高嶺にありあけの月
    (『新続古今和歌集』〈1439年〉釈教)

 彼女の没後に編まれた勅撰和歌集にも、以上の計3首が入集したに止まるが、3首目に掲げた釈教歌を含めて、この「正治二年第二度百首和歌」には「若書き」の域を出ない作品が多いように思われるから、歴代勅撰集の撰者たちの眼力は正しかったと評するべきだろう。

 一方で、やがて「わたらぬ水も」の7音が「制の詞」に列せられるようになった(即ち彼女の「特許」が世人に認められた)「たつた山……」の歌だけでなく、冷酷なまでの静けさと白さを宿した「寂しさを……」の歌や、『新古今和歌集』雑下に採られた「竹の葉に風ふきよわる夕ぐれの物のあはれは秋としもなし」(初出は老若五十首歌合)を予告するような、fp(フォルテピアノ=強いアタックの後、直ちに弱音に転じる)の力感が目覚ましい「外山なる……」の歌には、既に紛れもない「宮内卿」の刻印を見て取ることができる。

 説明的な筆致に終始する「外山なる……」の歌に比べて、より文学的な広がりを獲得した「竹の葉に……」の歌の方に、やはり一日の長があると言えるだろうから、『新古今和歌集』が後者を採って前者を採らなかったことに理不尽はないと思うが、fpの快楽(けらく)一本で勝負した「外山なる……」の歌にも、私は捨て難い魅力を感じる。

 そんな「外山なる……」の歌が『続古今和歌集』によって再発見されるまでには、65年を要したことになるが、「寂しさを……」の歌は、その誕生から実に139年もの時を経て、史上最後の勅撰和歌集である『新続古今和歌集』に居場所を与えられたのだった。
[PR]
by nazohiko | 2013-01-30 00:07 | ◆詩歌を読む

会いたかった~!(5)

 『新古今和歌集』に入集した宮内卿の歌は、30首を数える。部立に従って並べた上で、各歌の初出を示せば、次の通りになる。

 【春上】
   かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそみえね春は来にけり
    (老若五十首歌合・建仁元年〈1201〉2月)

   うすくこき野辺のみどりの若草に跡までみゆる雪のむら消え
    (千五百番歌合・建仁2年〈1202〉9月)

 【春下】
   花さそふひらの山かぜ吹きにけりこぎゆく舟のあと見ゆるまで
    (仙洞五十首・建仁元年〈1201〉12月)

   あふ坂や梢の花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら
    (仙洞五十首・建仁元年〈1201〉12月)

   柴の戸をさすや日かげのなごりなく春くれかかる山の端の雲
    (土御門内大臣家影供歌合・建仁元年〈1201〉3月)

 【夏】
   片枝さすおふのうらなし初秋になりもならずも風ぞ身にしむ
    (千五百番歌合・建仁2年〈1202〉9月)

 【秋上】
   思ふことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞとふ
    (新古今和歌集を現存最古の出典とする・元久2年〈1205〉3月)

   心あるをじまのあまの袂かな月やどれとはぬれぬ物から
    (撰歌合・建仁元年〈1201〉8月)

   月をなほ待つらんものかむら雨の晴れ行く雲の末の里人
    (仙洞五十首・建仁元年〈1201〉12月)

 【秋下】
   まどろまでながめよとてのすさびかな麻のさ衣月にうつ声
    (撰歌合・建仁元年〈1201〉8月)

   霜をまつ籬の菊の宵のまにおきまよふ色は山のはの月
    (仙洞五十首・建仁元年〈1201〉12月)

   たつた山あらしや嶺によわるらんわたらぬ水も錦たえけり
    (正治二年第二度百首和歌・正治2年〈1200〉11月以後)

 【冬】
   からにしき秋のかたみや立田山ちりあへぬ枝に嵐ふくなり
    (老若五十首歌合・建仁元年〈1201〉2月)

 【恋三】
   きくやいかにうはの空なる風だにも松に音するならひありとは
    (水無瀬殿恋十五首歌合・建仁2年〈1202〉9月)

 【雑下】
   竹の葉に風ふきよわる夕ぐれの物のあはれは秋としもなし
    (老若五十首歌合・建仁元年〈1201〉2月)

*      *      *      *      *

 これら30首を初出の順に並べてみると、今後は次の通りになる。

 【正治二年第二度百首和歌・正治2年〈1200〉11月以後】
   たつた山あらしや嶺によわるらんわたらぬ水も錦たえけり
    (『新古今和歌集』秋下)

 【老若五十首歌合・建仁元年〈1201〉2月】
   かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそみえね春は来にけり
    (『新古今和歌集』春上)

   からにしき秋のかたみや立田山ちりあへぬ枝に嵐ふくなり
    (『新古今和歌集』冬)

   竹の葉に風ふきよわる夕ぐれの物のあはれは秋としもなし
    (『新古今和歌集』雑下)

 【土御門内大臣家影供歌合・建仁元年〈1201〉3月】
   柴の戸をさすや日かげのなごりなく春くれかかる山の端の雲
    (『新古今和歌集』春下)

 【撰歌合・建仁元年〈1201〉8月】
   心あるをじまのあまの袂かな月やどれとはぬれぬ物から
    (『新古今和歌集』秋上)

   まどろまでながめよとてのすさびかな麻のさ衣月にうつ声
    (『新古今和歌集』秋下)

 【仙洞五十首・建仁元年〈1201〉12月】
   花さそふひらの山かぜ吹きにけりこぎゆく舟のあと見ゆるまで
    (『新古今和歌集』春下)

   あふ坂や梢の花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら
    (『新古今和歌集』春下)

   月をなほ待つらんものかむら雨の晴れ行く雲の末の里人
    (『新古今和歌集』秋上)

   霜をまつ籬の菊の宵のまにおきまよふ色は山のはの月
    (『新古今和歌集』秋下)

 【千五百番歌合・建仁2年〈1202〉9月】
   うすくこき野辺のみどりの若草に跡までみゆる雪のむら消え
    (『新古今和歌集』春上)

   片枝さすおふのうらなし初秋になりもならずも風ぞ身にしむ
    (『新古今和歌集』夏)

 【水無瀬殿恋十五首歌合・建仁2年〈1202〉9月】
   きくやいかにうはの空なる風だにも松に音するならひありとは
    (『新古今和歌集』恋三)

 【新古今和歌集を現存最古の出典とする・元久2年〈1205〉3月】
   思ふことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞとふ
    (『新古今和歌集』雑下)

 『新古今和歌集』入集歌は例外なく、正治2年(1200)の末から建仁2年(1202)の9月まで、僅か3年弱の間に生み出されたのである。特に、建仁元年(1201)の名歌連発ぶりには脱帽せざるを得ない。彼女は元久元年(1204)11月の「春日社歌合」に出詠しているから、「水無瀬殿恋十五首歌合」の後、少なくとも2年余りは作歌を続けていたことが分かるが、その早すぎた「最晩年」の作品を、後鳥羽上皇たちは『新古今和歌集』に迎え入れなかった。

 神尾暢子氏の『纂修後鳥羽院宮内卿歌集稿』に拠れば、「水無瀬殿恋十五首歌合」より後の作品であることが確実なものは、僅か12首を数えるのみ。もしかすると、この頃の彼女は、歌人として既に燃え尽きていたのだろうか。とはいえ、藤原俊成の「九十の賀」(建仁3年〈1203〉)に際して彼女の詠んだ一連の歌は、没後100年以上を経た14世紀の勅撰和歌集『続後拾遺和歌集』に2首、『新拾遺和歌集』と『新後拾遺和歌集』に1首ずつ採られている。
[PR]
by nazohiko | 2013-01-29 00:11 | ◆詩歌を読む

会いたかった~!(4)

 神尾暢子氏は先日の記事「会いたかった~!」で紹介した『纂修後鳥羽院宮内卿歌集稿』に加えて、「後鳥羽院宮内卿歌集稿補遺」を『王朝』第4号(王朝文学協会、1971)に掲載しているようだ。これも入手することにしたい。宮内卿の真筆であることが疑わしい歌まで、既に『纂修後鳥羽院宮内卿歌集稿』に採られているからには、更にどのような歌が「補遺」として集められたのか、なかなか気になる所だが、或いは歌そのものではなく、彼女の歌業に関する各種史料を並べてあるのだろうか。

 宮内卿に言及した鎌倉時代の文章と言えば、『古今著聞集』に記されたスキャンダル小咄(「会いたかった~!」に掲出)を除けば、作者未詳の『増鏡』と鴨長明の『無名抄』が、私の知る全てである。前者では巻一「おどろのした」に、後鳥羽上皇の激励を受けて涙ぐむほど発奮し、作歌に熱中した彼女の姿が記され、後者では「俊成卿女、宮内卿、歌のよみやう変ること」において、諸々の文献に繰り返し目を通した上で、それらを手に取らないで作歌した俊成卿女と、机に広げた書物を睨みながら、昼夜を問わずに歌を詠んだ彼女が対照される。

  この千五百番の歌合の時、院の上のたまふやう、
   「こたみは、みな世に許りたる古き道の者どもなり。
    宮内卿はまだしかるべけれども、けしうはあらずと見ゆめればなん。
    かまへてまろが面(おもて)起すばかり、よき歌つかうまつれ」
  と仰せらるるに、面うち赤めて涙ぐみて候ひけるけしき、
  限りなき好きのほど、あはれにぞ見えける。

 『増鏡』より。「まろが面(おもて)起す」ような良い歌を作れという、青年上皇の熱気を帯びた言葉と、「面うち赤めて涙ぐみて」それに聞き入る少女歌人の描写が、「面」という語を仲立ちとして、美しく向かい合う。

 因みに、後年の後鳥羽上皇が和歌論や歌人評などを語った「後鳥羽院後口伝」に、彼女の名は現れない。「女房歌詠み」として挙げられたのは、「やさしき歌あまた詠めりき」という宜秋門院丹後(異浦の丹後)1人であった。
[PR]
by nazohiko | 2013-01-26 19:52 | ◆詩歌を読む

催馬楽には無調音楽がお似合ひ

  音楽的な音のすべては、
  われわれの素質に応じて「調性」に関連づけられねばなりません。

  (中略)

  たとえばアジアで無調音楽が
  現地の聴衆に理解されるというようなことは、十分に考えられます。
  少し前、中国音楽の試演を初めて聴きましたが、
  それは疑いなく概念的には無調に属していました。
  興味深く聴きましたが、理解はできませんでした。
  しかし、たしかな筋から聞いたところによると、
  日本音楽は、われわれの耳にも届くようです。
  つまり、一般論では片付けられません。
  われわれの西洋音楽、われわれの音楽は、
  それ自身の過去を意識し続ける限りでのみ、生き続けることができるのです。

 1931年にウィーンの『新自由報道』紙が行ったアンケート「音楽の未来はあるか?」に対して、指揮者ブルーノ・ヴァルターはこのように答えたという(奥波一秀『フルトヴェングラー』、筑摩選書、2011)。

 伝統的な中国音楽や日本音楽は、西洋クラシック音楽によって定義されるような「調性」や「和声」のシステムに依らないわけだが、ヴァルターの耳には、それが「無調」の音楽として認知されたのである。「西洋クラシック音楽でいう『調性音楽』に当てはまらない楽曲」と「西洋クラシック音楽の新派として、積極的に調性からの離脱を図った楽曲」即ち「無調音楽」の混同や、「中国音楽を理解できなかったのは、無調音楽であったからだ」という理由付けに、回路の短絡を指摘することは容易い。しかし、彼が以上のように発言した目的はあくまで、調性音楽を「われわれの伝統」として擁護する彼の音楽家的立場を表明することなのだから、揚げ足を取るようなコメントを送っても仕方があるまい。

 一方で、これもヴァルターの本旨から外れる部分ながら、アジア(主に日本や中国を指すのだろう)の人々に無調音楽(西洋クラシック音楽の一翼としての)が理解される可能性があるという発想に対しては、私はやや異なる文脈において首肯させられる所があった。「アジアには『無調音楽』の伝統があるから、西洋から発信される『無調音楽』を受け入れるだろう」という彼の論理には、やはり甘さ(二重の甘さ)を指摘せずにおれないものの、それはともかく、日本の伝統的旋律を伴奏するものとして、西洋クラシック音楽の無調音楽がなかなか似合うことを、私は実例によって知っている。

 それは今から20年近く前に、黛敏郎時代の「題名のない音楽会」で1度だけ耳にした、松平頼則の「更衣」である。「更衣」という催馬楽が女声によって歌われ、そこに十二音技法(無調音楽の一種)で作曲された小管絃楽(?)の伴奏が付く。細かいことを憶えていないが、濃密な上昇気流がゆっくりと立ち上るような無調音楽に付き添われて、催馬楽の声音がどこまでも自在に浮遊するといった印象であり、その浮遊感が誠にたまらなかった。オリジンの異なる両者の取り合わせに違和を覚えるどころか、むしろ「コロンブスの卵」的な親和ぶりを目の当たりにしての興奮が後に残った次第である。
[PR]
by nazohiko | 2013-01-25 20:38 | ◆音楽を聴く

管絃楽に呑み込まれるドン・ジョヴァンニ

 6年半ほど前に書いた小文「オテロの第一声!」では、デル・モナコがオテロを歌い、カラヤンがウィーン・フィルを指揮した1961年の録音を取り上げた。オテロの第一声である"Esultate!"云々の凱旋宣言において、敢えてデル・モナコの千両役者ぶりを前に出さず、むしろ「ホルンの合奏に溶け入る、一本の管楽器」のような扱いを徹底することにより、却って「神々しい英雄」の登場を強く印象付けるというカラヤンの手法に讃嘆の意を示した次第だが、彼が1985年に録音した「ドン・ジョヴァンニ」にも、これに通じるような技が効果を上げた一瞬がある。

 それは、第1幕でドン・ジョヴァンニが歌う「シャンパンの歌」だ。この不思議な主人公に宿った「エロスの白熱光」を惜しみなく八方に放射する、一点の曇りもないまでに燦然とした音楽である。この只でさえ極端に短い1曲を、カラヤンの指揮するベルリン・フィルは、恐るべき速さと勢い、そして音量で鳴らし始める。サミュエル・レイミーの受け持つドン・ジョヴァンニの声は、フル・スロットルの管絃楽に終始押され気味であり、なおかつ、あれよあれよと進んでゆくテンポを、辛うじて言葉が追いかけてゆくといった感もある。そして、歌い納めの"devi aumentar!"という一声に至っては、それを待ちきれないかのように再度のフォルティッシモ(楽譜上はフォルテなのだが)に入った管絃楽の奔流の中に、ほとんど呑み込まれてしまう。こうしたバランスの設定によって、このアリアを聴く者は「ドン・ジョヴァンニ本人にすら制御できないほどの、巨大なエネルギーの噴出」をまざまざと幻視させられるのだ。
[PR]
by nazohiko | 2013-01-22 21:47 | ◆音楽を聴く

会いたかった~!(3)

 先の記事で紹介したように、宮内卿と藤原定家の間に「密通」の噂が立ったと『兼載雑談』は記すが、私にはその話が如何にも嘘臭く見える。

 宮内卿の歌にみなぎる、何者をも恐れぬかのような息遣い(但し「人工的な晴朗さ」を時に含んでいる)や、紛れもない新風に自ら得意を隠さないかのような口調はいずれも、和歌の世界における彼女の「パパ」が定家ではなく後鳥羽上皇であったことを、おのずから物語るだろう。彼女は和歌の血脈において、後鳥羽上皇の娘に他ならないのだ。定家と式子内親王のプラトニックなロマンスなら、嘘は嘘でも美しい嘘として味わい得るけれども、定家と宮内卿を「密通」の噂で結びつけるというのは、センスに欠けるとしか言いようがない。

 これに対して、コミカルなまでに宮内卿に執心する後鳥羽上皇の姿には、一抹の「真実」が宿っているように思う。
[PR]
by nazohiko | 2013-01-21 01:35 | ◆詩歌を読む

会いたかった~!(2)

 宮内卿がどのような容貌であったか、具体的なイメージが湧いたことがないし、日常会話の声音や和歌を吟じた際の抑揚についても同様なのだが、その作品を黙読する時に聞こえてくるのは、透明感のあるソプラノであり、そのテンポは速くも遅くもない。塚本邦雄は『新古今和歌集』春上の構成を優れた楽曲に喩え、第4首目として彼女の歌「かきくらしなほふる里の雪の内に跡こそ見えね春は来にけり」が現れる所を、そこで「宮内卿のソプラノが響く」と言い表した。私がこの評言を初めて目にしたのは大学1年生の冬だったが、一読した時に覚えた鮮烈な共感は、今なお揺るがない。

 私の場合はいつの頃からか、モーツァルトの絶筆「レクイエム」を聴く度に、ニ短調で始まった第1楽章「入祭唱」が変ロ長調に転じて、ソプラノ独唱が"Te decet hymnus, Deus in Sion..."と歌い出す所で、上述の『新古今和歌集』春上・第4首を想起するようになった。但しそうとは言っても、宮内卿の歌に先行する第1首(摂政太政大臣=藤原良経)・第2首(太上天皇=後鳥羽上皇)・第3首(式子内親王)という流れに、「レクイエム」冒頭の重苦しい歩みを連想するわけではないけれども。また、ソプラノ独唱による"Te decet hymnus..."の一節は、私には「速くも遅くもない」という気分を与えるような音楽となっているが、楽譜に指定されたテンポはアダージオであり、物理的には楽章全体がこの「遅さ」で終始一貫している。

関連記事:
http://japondama.exblog.jp/19121477/
http://japondama.exblog.jp/19121485/
[PR]
by nazohiko | 2013-01-19 22:39 | ◆詩歌を読む

会いたかった~!

 「後鳥羽院宮内卿」と呼ぼうと「若草の宮内卿」と呼ぼうと、いずれも本名ではないから重大な違いはないのだが、早世したと伝えられる彼女に「家集」はない。彼女の和歌や、彼女に関する資料をまとめた書物が編まれることも(少なくとも、そうした書物が世に周知された例は)、長きにわたって皆無だった。

 神尾暢子氏による『纂修後鳥羽院宮内卿歌集稿』(中央図書出版社〈王朝叢書〉、1970)を先日入手できたことは、宮内卿を「タイムマシンに乗れるなら、ぜひ会ってみたい歌人」の筆頭とする私にとって、渇きを癒されるような喜びである。彼女の歌として伝世するものを計363首、原則として成立年代順に配列してあり、本文は平仮名表記に統一した上で、典拠となった文献(同じ歌が複数の文献に現れる場合も少なくない)と、そこに用いられた表記を附注として示す。歌合に出品された歌については、番えられた歌と判詞も記し留める。

 実際の所は、「正治二年第二度百首(100首)」「老若五十首歌合(50首)」「仙洞五十首(50首)」「千五百番歌合(100首)」「水無瀬恋十五首歌合(15首)」という有名出典を持つ歌だけで、既に315首(但し重複を含めて)に達してしまうのだが、以上の百首歌・五十首歌が1冊に纏められているのは便利であるし、歌合の中から宮内卿の作品だけを抜き出してあるのも有難い。そして何よりも嬉しいのは、これまで私の知らなかった幾つもの歌や、それらを収めた様々な文献に、神尾氏のおかげで邂逅できたことだ。

 歌を年代順に配列してあることは、宮内卿の歌風の変遷(確認される活躍期間が、僅か4年であるとはいえ)について考えるために役立つし、その作品を収めた同時代や後世の文献(勅撰和歌集など)を丁寧に列挙してあることは、どの歌がどのような人々に評価されたかを観察するのに役立つ。収録歌の内には、『古今著聞集』や『兼載雑談』に見られる各1首のように、

みやこにも ありけるものを さらしなや はるかにききし おばすてのやま
古今著聞集 宮内卿は甥にてありける人に名たちし也。をとこかれがれになりにけるとき、よみ侍りける/都にも有けるものをさらしなやはるかにきゝしをばすての山(巻第八・好色第十一)

さればとて こけのしたにも いそがれず なきなをうづむ ならひなければ
兼載雑談 此の歌は、宮内卿、後鳥羽院のえいりよにかなひたりし頃、定家に密通の名立ちて、勅にそむく。局に引き籠りてよみたりし歌なり。是をえいらんありて、感じ給ひてやがて勅免ありしとなり/さればとて苔の下にも急がれずなき名を埋む習ひなければ

当該歌の誕生に関わるエピソードまで含めて、如何にも史実らしくないものも含まれるのだが、それらとて「宮内卿伝説」の形成や伝承について我々に情報をくれる、捨て難い資料であると言えよう。
[PR]
by nazohiko | 2013-01-19 12:07 | ◆詩歌を読む

再び音楽における「非人情」について

 旧ブログに書いたものをこちらへ移し替えた際、今から6年余り前の2006年の秋に「こんなベートーヴェン」と題する一文を綴っていたことを思い出した。ベートーヴェンの第3交響曲の草稿と現行版を比較して、「前者がナポレオンという実在の風雲児を想起させる『人間臭さ』において、それはそれで優れた音楽であるのに対し、後者は『非人情』なまでの翳りなさや、同じく『非人情』なまでに素早い変わり身を前面に押し出すことによって、いわば『ナポレオン交響曲』から『英雄交響曲』への脱皮を果たしている」という感想を述べた次第である。

 読み返してふと念頭に浮かんだのだが、モーツァルト最後の交響曲とされる通称「ジュピター」も、ベートーヴェンの場合に通じる「『非人情』な音楽作り」というキーワードによって、その尽きない魅力の一端を理解することができるように思われる。典型的な箇所として、弱奏を主体とする第2主題部分が管絃楽の全休止によって一旦途切れた直後、突如としてハ短調の咆吼が湧き起こり、かと思えば一種の内にハ長調に転じてしまうくだりを挙げておきたい(ここでトランペットとティンパニに支えられながら、ドミソの分散和音を強奏の四分音符で踏み上がってゆくヴァイオリン2部の「居直り」ぶりには、開いた口が塞がらない程だ)。なおかつ、次なる全休止によって音楽が再び停止した後には、先程の第2主題部分に輪を掛けて気楽な歌謡風主題(提示部を締め括るための)がそれに引き続く。何というやりたい放題だろう。しかし結果として、何という信服感を聴く者に与えてしまうのだろう。

 この交響曲の楽譜に「ジュピター」と書き加えたのは、モーツァルト本人ではないらしいが、この曲の本質を(モーツァルト以外の)誰かの名前によって表そうとするならば、「非人情」の愉悦を絵に描いたようなジュピターの大神ほどに相応しいものは、そう簡単に見つかるまい。
[PR]
by nazohiko | 2013-01-19 12:05 | ◆音楽を聴く