by 謎彦 by なぞひこ
by Nazohiko


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夢は枯野を

芭蕉の辞世の句には、
いろいろな表記が行われてきたようだが、
私の読んだ限りでは、
「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」というのが
オリジナルに最も近いらしい。

「病で」という送り仮名の付け方が、
現在ではめったに見られなくなったことや、
「廻る」が、「まはる」とも読めることに鑑みれば、
流布の過程で、様々に書きかえられてしまったのも、
仕方がないことだと言えようか。

この句を絶唱たらしめる、最たる要素は、
「たびにやんで」という字余りであり、
なおかつ、字余り部分の「で」という鈍重な響きである。

失速したジャンボ・ジェットが、
砂塵の中へ胴体着陸してゆくような韻律は、
芭蕉の肉体がもはや再起不能だということや、
また、そんな芭蕉の無念の思いをも、
残酷なまでの表現力で物語ってくる。
耳を澄ませて、そこまで読み込んで(聴き込んで)こそ、
「夢は枯野をかけめぐる」という後半部分に備わった
一種不可思議な軽みが、活きてくるのだ。

詩歌を読むという作業は、
もっと、韻と律の工学でなければならないし、
韻律の工学が成り立つためには、
韻律の心理学を、もっと意識しなければならない。

それはそうと、この句には、
ドナルド・キーンによる英訳がある。

  Stricken on a journey,
  My dreams go wandering round
  Withered fields.

キーン教授は「旅に病で」を、
"Stricken on a journey"と訳した。
日本語に直訳すれば、
「旅の途上で打ちのめされて」となるだろうか。
"stricken"は、"strike"の過去分詞形である。

私は上述のように、「旅に病で」の韻律から、
芭蕉の肉体が、自ら力尽きてゆく様子をイメージする。
つまり、内部からの崩壊として読む傾向にあるわけだが、
キーン教授は、芭蕉が死神の鉄槌を食らう姿を、
同じ「旅に病で」という言葉から、想起したようだ。
もしかすると、その字余りと「で」の響きに、
鈍器によるゆっくりとした殴打の音を、聴き取ったのかもしれない。# by nazohiko | 2006-12-10 00:36
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by nazohiko | 2006-12-10 00:36 | ☆旧ブログより論考・批評等

青苔涼透了我的心坎

看一回凝靜的橋影
數一數螺鈿的波紋
我倚暖了石欄的青苔
青苔涼透了我的心坎

========================

まあるい橋のてつぺんで
まあるい影に飽いたころ
かぞへきれない水紋が
月のひかりに螺鈿なす

苔がやうやうぬるむまで
石の手すりに倚りをれば
こゝろの芯を冷ますほど
苔の青さがしみとほる

========================

徐志摩(1897-1931)の詩
「月下待杜鵑不來」(月夜にほととぎすを待ちぼうけ)より
最初の一連を意訳してみました。

# by nazohiko | 2006-12-09 01:25
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by nazohiko | 2006-12-09 01:25 | ☆旧ブログより韻文・訳詩等

ファウスト

私の『ファウスト』に音楽を付けてもらうとしたら、
モーツァルトの他に考えられないよ……と、
ゲーテが語ったと伝えられている。
モーツァルトが没してから、ずっと後の話である。

なぜなんだろう?

戯曲の主人公ファウスト博士は、
自身の信念について熱弁を振るえば振るうほど、
その言葉が、究極のところで本音から乖離してゆくようだ。
どことなく、私にそんな疑いを起こさせる。
むしろ、ポロッと漏れ出た一言によって、
思いがけず心の底を覗かせるシーンが、彼には幾つかある。

「私自身にも、似たような傾向があるから、
そういう人物像を、敏感に察知できるのだ」と
ナルシスト気味な正当化を試みることも、可能ではあるが、
「お前は、お前自身に似た人物像しか認知できないから、
ファウスト博士にも、お前自身を投影してしまうのだ」と
反論されれば、迎撃のしようがない。

そこで、きょろきょろと傍証を探してみるに、
『ファウスト』にテーマや歌詞を求めて、
実にたくさんの作曲家が、楽曲を作ったけれども、
ファウスト博士の台詞を、歌詞にしたものは主流でない。
少なくとも、成功作と呼ばれる楽曲について言えば、
悪魔メフィストフェレスや少女マルガレーテなど、
ファウスト博士以外に取材した作品が、多いようである。

これは、ファウスト博士が、
あれほど自分のことばかり語っていながら、
そのくせ、言葉を額面通りに受け取るわけにはゆかない、
明快な把握の難しい人物であるために、
眼力のある作曲家たちには、敬遠されたということを、
意味するのではないだろうか?

飜って、モーツァルトという作曲家のことを思うに、
彼は歌劇「ドン・ジョヴァンニ」において、
本心を一度も吐露しない主人公を、見事に造型してのけたし、
最晩年の歌劇「魔笛」では、
聖者として崇められるザラストロに、
荘厳で重厚な響きの隙間から、
彼の卑小さが、ちろちろと垣間見えるような音楽を与えた。

そんなモーツァルトの空前絶後な表現手腕に、
ゲーテは、ファウスト博士を託したかったのかもしれない。
これが、私のとりあえず想像するところ。# by nazohiko | 2006-12-05 21:41
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by nazohiko | 2006-12-05 21:41 | ☆旧ブログより論考・批評等

スーパー・シティが舞いあがる

フェイド・アウトで終わる曲が、たいてい嫌いだ。

「一曲を聴き終わった」という達成感を得がたいし、
そもそも、元気な声や強奏を保ったまま、
音量だけが機械的に絞られてゆくというのは、
音楽の表現として、誠に不自然である。

「音量の高低」と「演奏の強弱」は、別の尺度であって、
スピーカーのボリュームを最小にしても、
フォルティッシモは、フォルティッシモに聴こえるものだし、
スピーカーのボリュームを最大にしたって、
ピアニッシモは、ピアニッシモに聴こえるものなのだ。

かくいう私ながら、愛聴するフェイド・アウト曲もある。
ジュリーこと沢田研二の
"TOKIO"(作詞:糸井重里、作曲:加瀬邦彦)は、その一つだ。

ジュリーが電飾を身に付けて熱唱した、この歌は、
石油ショックを乗り切って、揺るぎない繁栄に達した
「奇跡を生み出すスーパー・シティ」と、
この街で成功のチャンスを掴んだ「夢を飼う恋人」が、
高血圧状態で共鳴しあう姿を、描いたものだ。

  欲しいなら 何もかも
  その手にできるよ A to Z

  やすらぎ知らない遊園地が
  スイッチひとつでまっ赤に燃えあがる

スーパー・シティの奇跡も、
恋人たちの大願成就も、まだ始まったばかりなのだ。
だから、この歌は、
たかだか4分37秒で終わってしまうわけにゆかない。

かといって、一晩も二晩も、
「TOKIOが空を飛ぶ~!」と唄い続けることもできないから、
フェイド・アウトという形で、
強制的かつ暫定的に、曲を中断させるしかないのである。
それが、唯一の「正しい」閉じ方だと言ってもよい。

フェイド・アウトという便宜的な曲尾であるがゆえにこそ、
この歌の本質が、終わらない疾走であることを、
聴く者に、却って強く意識させる……そんな効果もある。
私がこの歌を聴く時には、必ずリピートして聴くし、
その後も半時間くらいは、脳裡でジュリーの声が循環する。

ちなみに、ザ・ドリフターズの「ズッコケちゃん」や、
忌野清志郎・坂本龍一の「い・け・な・いルージュマジック」は、
同じメロディを繰り返しながら、
単純にフェイド・アウトしてゆくように見せかけながら、
よく聴き入ってみると、
そこに、ちょっとした遊びが盛り込まれている。
こういうフェイド・アウトも、私はそれなりに好きだ。


※Youtubeには、これしか映像がありませんね。
 2分50秒のところから、"TOKIO"が流れます。

 http://www.youtube.com/watch?v=jyDiY-aX-vw

# by nazohiko | 2006-12-04 21:45
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by nazohiko | 2006-12-04 21:45 | ☆旧ブログより論考・批評等

余談

先の記事「トゥーランドット(7)」でご紹介した、
歌劇「トゥーランドット」を「指揮」して、Youtubeで披露する青年を、
皆様お楽しみいただけただろうか。

この青年は、マーラーの交響曲第8番にも挑んでいた。
「一千人の交響曲」と通称される、とんでもない大曲である。
彼の勇姿(?)を、とくとごらんあれ。

http://www.youtube.com/watch?v=zsAOOgry-8A
http://www.youtube.com/watch?v=_WOnWaRLnbw

「トゥーランドット」といい、「一千人の交響曲」といい、
私の偏愛する曲目と、重なっているなあ……。# by nazohiko | 2006-12-04 00:58
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by nazohiko | 2006-12-04 00:58 | ☆旧ブログより随想・雑記等

トゥーランドット(7)

 プッチーニの歌劇「トゥーランドット」は、豪奢なファンファーレに続いて、最終場面になだれ込む。命懸けの賭けを制したカラフ青年が、トゥーランドット姫を得るラストシーンは、祝福の大合唱が轟く中を、しかし僅か20小節あまりで終わってしまうし、主人公であるはずのカラフが、ついに一言も発しない。

 この最終場面も、最終場面を導く長大なファンファーレ(舞台装置を換えるための時間でもある)も、プッチーニ自身の作曲ではない。歌劇の完成間近で没したプッチーニに代わって、アルファーノという作曲家が補った部分なのであり、初演にあたって指揮者のトスカニーニが一部カットして、現行の形になった。

 物語として一応の格好が付く、最小限の補筆に止めたために、このような最終場面になってしまったのだろう。それはそれで一つの見識だとは思うけれども、やはり私には不満が残った。プッチーニの在世中に仕上がっていた台本では、カラフも歓呼の声を上げるのだ。主人公が黙ったままのラストシーンなんて面白くない。

 そう思い続けていたのだが、昨晩カラヤン指揮のCDで最終場面の音楽を聴き、脳内麻薬ダラダラの状態に至った時、ふと一つの解釈が閃き出た。この最終場面は現実ではなく、ハッピーエンドを目前にしたカラフが、昂奮の中で見ている白昼夢なのではないか。生身のカラフではなく、夢の世界の登場人物として舞台に現れたカラフだからこそ、ひとり無言のまま、燦然たる大合唱に聴き惚れているのだ。

 そもそも「トゥーランドット」と題されていながら、この歌劇はトゥーランドットの物語ではないし、カラフとトゥーランドットが対等に絡み合う物語でもない。カラフの燃えさかる野心と欲望が、歌劇のすべてを動かしてゆくのである。「他者認知」などという言葉には、一から十まで無縁なカラフ。そんな歌劇の終着点として相応しいのは、「カラフとトゥーランドットのハッピーエンド」としてではなく、あくまで「オレ様のハッピーエンド」としてのロイヤル・ウェディング(姫君の獲得)ではあるまいか。

 アルファーノやトスカニーニの意図には反する解釈なのかもしれないが、彼らによって制作された最終場面は、カラフを黙り役の立場に置いたことによって、それがカラフの白昼夢であるという解釈や、最終場面の主題が「カラフの願望の成就」であるという解釈の可能性を、私に与えてくれた。そして、最終場面に先立つ長々としたファンファーレは、白昼夢に向かって脈拍と血圧を昂進させてゆくカラフを表すように、響き始めるのである。脳内ハッピーエンドの光景をしばらく楽しんだ後で、カラフは着替えを済ませて、実際の婚礼に赴くことだろう。

「トゥーランドット」の最終場面は、こちらをどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=JdWRC2kf-MU

最終場面の音楽を、陶酔120%で指揮真似する青年の映像。
そう、カラフとはこういう人物像だと思うのですよ。
http://www.youtube.com/watch?v=jqeoOQiqv_0

# by nazohiko | 2006-12-03 22:25
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by nazohiko | 2006-12-03 22:25 | ☆旧ブログより論考・批評等

も が も

大塚駅の隣は、巣鴨駅である。
山手線の話だ。

大塚駅のホームに立っていると、
「こんどの電車は す が も をでました」
と書かれた、電光板が光り始めた。

黒地にオレンジ色の「 す が も 」が
目に入ってきた時、
「君がゆく道の長手を繰りたたね焼き滅ぼさむ天の火もがも」
の「 も が も 」と一瞬錯覚して、
背筋に寒さが走った。
万葉集で随一のトラウマ短歌である。

  空を飛ぶ 歌が飛ぶ
  道の長手を 繰りたたね
  火を吹いて 闇を裂き
  焼き滅ぼさむ 歌もがも
  MO-GA-MO!
  MOGAMOが二人を抱いたまま
  MO-GA-MO!
  MOGAMOが夜に飛ぶ

# by nazohiko | 2006-12-01 21:34
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by nazohiko | 2006-12-01 21:34 | ☆旧ブログより随想・雑記等