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薔薇は美しく散る

幼少の頃、訳も分からないままに、
「ベルサイユのばら」のアニメを視ていた。
あれから原作を読み、宝塚の舞台にも通ったけれども、
アニメ版に再び触れる機会には、まだ恵まれない。

昨晩、ネットの片隅で、
オープニングとエンディングの主題歌のみ、
久しぶりに聴くことができた。
日系人のベルばらファンが、
海外で開いているらしいサイトである。

http://www.araya.i8.com/music/music.html (mp3ダウンロード)
http://www.araya.i8.com/music/musicanime_jp.html (歌詞表示)

特にオープニングの「薔薇は美しく散る」が、
これほどすばらしい曲だったのかと、目を見張った。
昨晩のうちだけで、5回以上は聴いたと思うが、
歌が終わった後に、みるみる失速してゆくような後奏が
置かれているのを、どうしても受け入れられない。

「薔薇は薔薇は 美しく散る」という、最後の歌詞を、
文字通りに音楽化しようとして、こうなったのだろうか。
しかし、この歌はむしろ、
「華やかに激しく 生きろと生まれた」命を謳うものだ。
4拍子の音楽に、ときどき2拍3連(ヘミオラ)が挿入される、
不安定なリズムに乗って、苦しみながら前進してゆく歌なのだ。
歩みを止めて、くずおれるような後奏は、
似合わないと思うのだが、如何なものか……。# by nazohiko | 2006-11-29 15:41
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by nazohiko | 2006-11-29 15:41 | ☆旧ブログより論考・批評等

ハフナー・セレナード

ベルリン・フィルハーモニー管絃楽団の自主制作CDとして、
先代の芸術監督だったクラウディオ・アバドの指揮で、
モーツァルトの「ハフナー・セレナード」を演奏した時の
ライヴ録音(1996年12月)が出たのを、ご存知だろうか。
セレナードに先立って演奏される行進曲も、収録されている。

オーケストラを、無理なく伸びやかに、
なおかつ十分なシャープさで響かせることができるのが、
アバドという指揮者の魅力の一つだ。

ロッシーニの歌劇や、ベートーヴェンの交響曲などに、
そうした長所が、最もよく発揮されてきたと思うが、
一方で、彼がモーツァルトの作品を指揮する場合には、
低音弦楽器(チェロ&コントラバス)とティンパニが
全曲を通じて、大音量で存在を主張しすぎる嫌いがあり、
いかつくて窮屈なモーツァルトになってしまいがちだった。

今回の「ハフナー・セレナード」も、やはり例外ではない。
チェロとコントラバスは、オーケストラの飛翔を妨げ、
ティンパニの打撃は、まるで鼓膜を突き刺そうとするようだ。

しかし、そんな「悪役」たちすらも含めて、
各楽器パートの敏捷な運動神経や、
複数のパートで繰り広げるアンサンブルの精巧さは、
さすがアバド、さすがベルリン・フィルと舌を巻く他ない。
オーケストラを聴くよろこびを、堪能させてくれると同時に、
えてして「天衣無縫」のレッテルを貼られがちな
モーツァルトの音楽が、
実は簡潔無比にして、精密無比な構造体であることを、
たっぷり1時間をかけて、教えてくれるようでもある。

いつもながらの欠点を含みつつも、
その欠点を補って余りある快演だと思う。
なぜ10年もの間、お蔵入りしていたのだろう。# by nazohiko | 2006-11-26 22:12
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by nazohiko | 2006-11-26 22:12 | ☆旧ブログより論考・批評等

和服の下に赤シャツを?

『坊っちゃん』に出てくる赤シャツ教頭は、
フランネル製のシャツを着ていることになっている。

もし彼が、背広を着込んで出勤しているとすれば、
カジュアル向けであるフランネルのシャツと
合わせるのは、おかしいと言えるし、
そうではなくて、和服の下に赤シャツを着ているのだという
推定をする人もあるそうだが、
だとすれば、いよいよ珍妙な出で立ちである。

それから、あまり有名な場面ではないけれども、
彼が身に付けている金鎖(懐中時計の鎖だろう)を、
温泉からの帰りに、坊っちゃんが贋物であると見破る。
「社会の上流」らしく振る舞いたくて、背伸びをしてみるものの、
中途半端な真似事に甘んじたり、
トンチンカンに陥ったりするほかない人物として、
赤シャツ教頭は描かれているようだ。

彼に、お金がないわけではない。
同じ「学士様」の漱石は、松山中学校の平教員だった時点で、
既に校長を上回る高給をもらっていたのだから。
彼に足りないのは、セレブ生活のための生活教養と、
そして、自分への投資を惜しまない度胸だった。
金無垢の鎖でも、買おうと思えば買えたはずだが、
貴金属商の門をくぐる度に、尻込みしてしまい、
だらだらと贋物を使い続けているといったところだろう。

私が面白く思うのは、
赤シャツの服装に対する違和感や、金鎖が贋物であることが、
いずれも坊っちゃん自身の発見として、読者に報告されることである。
ファッションや装飾品には、無頓着そうな坊っちゃんなのだが。
このことは、坊っちゃんの出身家庭が、
決して裕福ではなかったとはいえ、
それなりの階層に位置していたことを、意味するとも言えようし、
あるいは、東京の文明文化の中で育った坊っちゃんと、
大学時代の数年間だけ東京にいたのであろう赤シャツの違いが、
こうした点に現れていると言えるのかもしれない。

# by nazohiko | 2006-11-23 14:57 | 論考・批評 |
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by nazohiko | 2006-11-23 14:57 | ◆小説を読む(坊っちゃん)

何だか大変小さく見えた

出立の日には朝から來て、いろいろ世話をやいた。来る途中小間物屋で買つて来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れて呉れた。そんな物は入らないと云つてもなかなか承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじつと見て「もうお別れになるかも知れません。隨分ご機嫌やう」と小さな声で云つた。目に涙が一杯たまつてゐる。おれは泣かなかつた。然しもう少しで泣くところであつた。汽車が余つ程動き出してから、もう大丈夫だらうと思つて、窓から首を出して、振り向いたら、矢つ張り立つて居た。何だか大変小さく見えた。

*    *    *    *    *    *    *

夏目漱石の『坊っちゃん』の中から
好きな場面を挙げよと言われたら、
私は迷わず、ここ第一章の末尾を選ぶ。

いや、もっと正確に説明するなら、
絶唱にも比するべき「何だか大変小さく見えた」と
第二章の冒頭部分
「ぶうと云つて汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た」との
落差までを含めて、旅立ちの場面を愛するのである。

新橋駅の出発直後から、四国某所への入港直前までを、
漱石は、あえて坊っちゃんに語らせなかったけれども、
第一章と第二章を繋ぐ、一行分の空白は、
どんなに委曲を尽くした心理小説よりも、遥かに雄弁である。

# by nazohiko | 2006-11-23 00:11 | 論考・批評 |
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by nazohiko | 2006-11-23 00:11 | ◆小説を読む(坊っちゃん)

月給は四十円だが

『坊っちゃん』は小学生の頃に読んだきりだったが、
坊っちゃんが物理学校を出てすぐに、
「四国辺の中学校」に赴任した時の月給が、40円であり、
2ヶ月足らずで教職を擲って東京に戻り、
「街鉄」の技手になった時の月給が、25円だったという数字は、
なんとなく記憶の中に残っていた。

『坊っちゃん』の発表から100年のうちに、
激しく値上がりしたものもあれば、
それほどでもなかったものもあるから、
物価の変遷を、一枚板に捉えることはできないが、
教師時代の坊っちゃんの給与が、高かったことは分かる。
物価の高かったはずの東京で、
清と二人で住めるほどの家を借りても、
街鉄から毎月もらう25円で、まかなえたようだから。

かつて司馬遼太郎は
『街道をゆく(37) 本郷界隈』(朝日新聞社)の中で、
夏目漱石の出身校である東京帝国大学を、
西洋文明を受容して、日本全国に配分する「配電盤」に喩えた。
漱石や坊っちゃんのような、
東京で高等教育を受けた人材を呼び込むために、
地方に赴任する教師には、高額の報酬が用意されていたのだろうか。

ちなみに、上には上があるもので、
帝大を卒業した漱石が(赤シャツ教頭と同じ学歴)
松山中学校に赴任した時の月給は、80円だったという。
坊っちゃんの倍額だったことにも驚くが、
なんとこれは、校長の月給(60円)をも上回っていたのである。

# by nazohiko | 2006-11-21 13:27 | 論考・批評 |
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by nazohiko | 2006-11-21 13:27 | ◆小説を読む(坊っちゃん)

坊っちゃん

某国の友人が、日本語のクラスで、
夏目漱石の『坊っちゃん』を習っていて、
ときどき私に質問をよこしてくる。

ここしばらくは、
20年ほど前に読んだままの記憶に任せて
受け答えしてきた。
記憶の程には自信があるし、
語彙や文法の説明に苦はないから、
それでも十分に用が足りたのだが、
せっかくだから
この機会に読み直そうと思って、
岩波文庫版を買ってきた。

そして、ショックを受けた。

日露戦争の祝勝会という場面があるので、
坊っちゃんの四国赴任と電撃辞職は、
1905年だったことが分かるというのは、
前々から知っていたことだが、
平岡敏夫の巻末解説によれば、
この小説が発表されたのは、
なんと1906年の4月だったのである。

つまり、坊っちゃんが一人称で語るのは、
大半が「去年のこと」に属するのだ。
3年から5年くらい昔のことを
回想するという設定で書かれた物語だと、
私は、これまでずっと思い込んでいた。

いっそう衝撃的だったのは、
清の病没した「今年の二月」も、
おのずから1906年2月に特定されることである。
坊っちゃんの辞職と帰京が、
1905年の晩秋であることと考え合わせるなら、
帰京後の坊っちゃんと清は、
念願であった、再度の同居生活を、
わずか数ヶ月しか
実現できなかったという計算になるのだ。

坊っちゃんファンであり、
清ファンでもある私としては、
もうちょっと長い時間を、
二人には、共に過ごしてほしかったのだが、
平岡解説によれば、
坊っちゃんの四国赴任の頃(1905年秋)から、
清の体調が、既に悪くなりつつあったらしい描写を
読み取れるのだというから、仕方がない。

そして、
坊っちゃんが自身の半生を語り出すのは、
四国赴任から数えれば、ほんの半年後、
清の逝去から数えれば、ほんの1~2ヶ月後のこと。
兄や山嵐とは、あれから一度も会っていないという
言葉の意味するところともども、
『坊っちゃん』の読み方が、
私の中で、これから変わってゆくに違いない。

※今年で『坊っちゃん』発表100周年、 清の没後100周年でもあるわけですね。

# by nazohiko | 2006-11-20 12:06 | 論考・批評 |
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by nazohiko | 2006-11-20 12:06 | ◆小説を読む(坊っちゃん)

音楽と言葉

先週の日曜に買ってきた
カルロス・クライバーの指揮する
モーツァルトの交響曲について、
賛否こもごも、誰かに話したくて、
もう7日間も、うずうずしているのだが、
いざ語り始めようとすると、
的を射た言葉が
まるで見つからないことに気付いて、
隔靴掻痒の感に苦しむばかりだ。

でも、あえてそのままにしておく方がいい。

近似値のような言葉を
無理矢理にでも捻り出し、
いくつも並べ立てることによって、
苦し紛れのコミュニケーションを試みることは、
必ずしも不可能ではないし、
それはそれで
全く意味のない行為でもないと思う。

しかし、言葉が持っている吸着力は、
なかなか手ごわいもので、
楽曲や演奏について、
言葉という媒体に頼った説明を、
ひとたび強行しようものなら、
その時に使った、有限個の的外れな語彙に、
本来自分が抱いていた
もっと不定形で、もっと豊饒な感銘が、
本人の気付かないうちに
回収され、幽閉されてしまいがちなのだ。

言い換えれば、
自分がもともとから
そのように貧しくて的外れな感銘しか
抱いていなかったように、
錯覚させられてしまう。
そんな力が、言葉には備わっているようだ。

私は、かつて書評を執筆するという行為について、
以下のように述懐したことがある。

>とはいえ、いざ言語で表現してみると、脳裡にたゆたってい
>た時には、あれほど豊かに伸び広がっていたはずの思考や情
>動が、似ても似付かないほどに枝葉を刈り込まれ、矮小で生
>彩のない姿を呈してしまうというのも、多々ある現象だ。大
>抵の場合は、そんな姿に落胆しているうちに、もともとの樹
>影や図面をきれいさっぱり忘れてしまうものだから、いよい
>よ始末が悪い。

>備忘や推敲のための文章を試みて、却っていろいろなディテ
>ールを失ってしまうよりも、いっそ原始的な豊かさを保った
>まま、忘れてゆくに任せた方が幸せなのかもしれない……言
>語によって頭脳からアウトプットするという作業をめぐって
>は、そんな極言さえ許されなくはないだろう。心ニ浮カブヨ
>シナシ事を、強壮に育ててくれるのも言語なら、卑小にまと
>めてしまうのも言語。それは諸刃の剣なのである。

況わんや、
音楽について語ろうとする場合についてをや。

言葉が不可避的に作り出す
貧しい「うそ」に押しのけられて、
自分の脳裡にたゆたっていた
豊饒な「まこと」を忘れてしまうという問題だけを、
当時は意識していたわけだが、
言葉が本当に厄介であるのは、
むしろ「うそから出たまこと」を
生み出してしまう点、
つまり「うそ」を「まこと」だと錯覚させてしまう点に
あると言うべきなのだろう。

だから、音楽や文芸の批評などという行為に、
うかつに手を出してはいけないのだ。
とはいえ、とはいえ、
優れた楽曲や演奏や文芸作品に触れると、
私はいつも、
誰かに感銘を話したくて、うずうずしてしまう。
それらは、私の大脳の、
言葉に関わる幾つかの部分を、
この上なく甘美に刺激してしまうのである。# by nazohiko | 2006-11-19 23:31
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by nazohiko | 2006-11-19 23:31 | ☆旧ブログより論考・批評等

あなたならどうする?

随筆作品は大好きなのだが、
小説の方は敬遠してきた作家として、
内田百間と中島らもがある。

強いてパターン化するならば、
「透明の中に混濁あり」「硬質の中に軟体あり」の随筆と
「混濁の中に透明あり」「軟体の中に硬質あり」の小説という対比が、
内田・中島の共通点だと言えようか。

両人の随筆は、
そろそろ読み尽くしたに近いので、
これからどうしたものかと、手をこまねいている。# by nazohiko | 2006-11-17 14:21
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by nazohiko | 2006-11-17 14:21 | ☆旧ブログより論考・批評等

『物語集』を推す

秋葉原駅で降りて、
「文学フリマ」という催物に足を運んだ。
私の目当てにしていたのは、
石川美南さんと橋目侑季さんの出店「山羊の木/海岸印刷」である。
石川さんに声を掛け、橋目さんに初対面の挨拶をして、
刊行を楽しみしていた『物語集』を購入した。
すべて「~~話」で終わる石川さんの短歌を、
橋目さんが活版印刷して、装幀された作品である。

微妙な凹凸のある濃紺色の紙に、銀色のインクという、
平家納経を連想させる配色の、名刺サイズのカード。
一枚に一首ずつ短歌が刷られたものを、
綴じない代わりに、まとめて黒い小箱に収めてある。
小箱の表には、往年の文芸書さながらに、
「物語集 石川美南」のシンプルな題箋が貼られている。

  銀ぶちの眼鏡をかけて二人ゆく悪のみち華やかなる話
  失ひし言葉を捜す旅路にてななたび落とす命の話
  空腹のあまり選手を喰らひたる鬼監督の凄い歯の話
  菜箸をひら、とあやつり赤鬼をつまみあげたり 昔の話
  「発車時間を五分ほど過ぎてをりますが」車掌は語る悲恋の話
  上野にて一組の靴を分けあひし人と再びまみゆる話
  くすぐつたいかゆいこそばいこそばゆい誓ひのことば詰まつた話
  諦めたそばから文字の色褪せて今はすつかり読めない話

活版ならではの僅かなかすれや、
金属活字が紙に食い込んだ跡が、
ついつい初心を忘れてしまいがちな
「本に向き合うよろこび」や「本を受け取るよろこび」を、
うずうずと思い出させてくれるようだ。

印刷されたコンテンツが秀でているだけでなく、
装幀がそれ自体として風雅であるだけでもなく、
コンテンツと装幀が、
息もぴったりに結ばれ合っていることこそが、
この『物語集』の最大の勝因だろう。
もとより大量出版を目指さない、歌集というジャンルなのだから、
これからの歌集は、もっと十人十色に、
印刷や装幀に凝りまくるべきではあるまいか。
「~~まくる」という補助動詞の語気、ここ重要ね。

そんなことを考えさせられたという意味も含めて、
石川さんと橋目さんの合作になる『物語集』は、
今年に刊行された数多の歌集の中で、
最も印象的な「一箱」であったと言っても、過言ではない。

お二人の出店では、
同じく活版印刷によるブックマークのセット「寂しい栞」や、
冊子形式の歌集『小清水さんが建てた家』も購入した。
かくなる上は、石川さんの伝説的大作「祖父の帰宅/父の休暇」も、
お二人の工房「海岸印刷」から、
何らかの瞠目すべき造本によって刊行されることを、
切に希望せずにはいられない。# by nazohiko | 2006-11-12 21:36
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by nazohiko | 2006-11-12 21:36 | ☆旧ブログより論考・批評等

そんなベートーヴェン

ベートーヴェンを探偵役にした推理小説があるのを、ご存知だろうか。
森雅裕の『モーツァルトは子守唄を歌わない』である。
けっこう前に、講談社文庫に入っているのを買ったのだが、
残念ながら、今は絶版になっているらしい。

モーツァルトの真の死因をめぐって、
ベートーヴェンが、ぶつぶつ言いながら駆けずり回る。
この主人公にどこへでも付き随うのが、弟子のチェルニー。
ピアノの練習曲で有名な、あのチェルニーである。
学生時代のシューベルトも登場するし、
映画「アマデウス」ではモーツァルト謀殺の首謀者とされた、サリエリの姿もある。
音楽史上のエピソードを、ストーリーの急所急所に織り込みながら、
それでいて天衣無縫のドタバタ喜劇を繰り広げてゆく、忘れがたい一篇だ。

続篇として『ベートーヴェンな憂鬱症』があり、
また、ブラームスが探偵役となってワーグナーと対峙する、
『自由なれど孤独に』という作品もあるけれども、
シリーズ第一弾の『モーツァルトは……』には、ついに及ばなかったと思う。

ちなみに、挿絵は魔夜峰央の手になる。
パタリロそっくりに描かれたモーツァルトが、ひとつの見ものだ。
この小説の中で、皆がやっきになって追いかけ回す、
亡きモーツァルトの後ろ姿は、なるほどこんなイメージかもしれない。

# by nazohiko | 2006-11-12 10:17
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by nazohiko | 2006-11-12 10:17 | ☆旧ブログより論考・批評等