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再び紀野恵のこと(5)

ところで、塚本邦雄は『現代百歌園』の中で、
紀野恵のデビュー歌集に収められた

  そは晩夏新古今集の開かれてゐてさかしまに恋ひそめにけり

について、このように解釈している。

  新古今集の巻末には西行の「闇晴れてこころの空にすむ月は西の
  山辺や近くなるらむ」がおかれている。(中略)ここから逆に、
  巻頭は後京極良経の立春の歌へ読みたどるのもおもしろかろう。
  晩夏なら、たとえば偶然風が開いてくれた恋五の初めあたり、定
  家の「しろたへのそでの別れに露おちて身にしむ色の秋風ぞ吹く」
  から入るのも一興だ。さかさまに恋う楽しみは、まともに向き合
  って愛するよりも、対象に迫りやすい。

私はこれに同意できない。
形容動詞「さかしまなり」に漢字を添えると、
「逆しまなり」もしくは「倒なり」となるわけだが、
「さかしまに恋ひそめにけり」というのは、
終わりの方から読み遡ってゆくことによって、
『新古今和歌集』に惚れ込んだという意味ではなかろう。

「恋ひそめにけり」の対象を、
塚本と同じく、『新古今和歌集』であると考えてもよいし、
『新古今和歌集』を机の上に広げたまま外出した、
書斎の主であると考えてもよいだろうが、
いずれにせよ、恋慕の情を修飾する言葉として、
私は「さかしまに」を受け取りたいのである。
「まっさかさまに恋に落ちた」というような感じだ。

上に引用した塚本の文章は、
塚本自身の『新古今和歌集』への愛を語る言葉として、
これはこれで、なかなか魅力的ではある。
しかし、紀野作品の解釈としては、
不自然の感を拭えないのではないか。

少なくとも、
「さかしまに(新古今集を)恋ひそめにけり」や
「さかしまに(書斎の主を)恋ひそめにけり」のように、
言葉をひとつだけ補えばよい読み方に比べて、
「さかしまに(頁を繰って)(新古今集を)恋ひそめにけり」
という塚本式の読解は、煩瑣である。# by nazohiko | 2006-10-15 00:48
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by nazohiko | 2006-10-15 00:48 | ☆旧ブログより論考・批評等

再び紀野恵のこと(4)

塚本邦雄が「前期紀野恵」を評した言葉のうち、

  警戒すべきは、稀用古語を頻用することと、そのための古典臭とも
  言うべき癖であろう。

という前半部分は、
一瞬の違和感が通り過ぎた後に、たやすく納得できた。
稀用な古語を「駆使」することと、「頻用」することの、
厳然たる違いを自覚するよう、戒めているのであって、
塚本自身の作風を否定するものでないことは、言うまでもない。

私にとって難問となったのは、後半の部分である。

  古典によって開かれた目は、現実を鋭く直視できよう。

自分の理解する限りにおいての塚本邦雄と、
この論調を、どのように整合させればよいのか。

『日本人霊歌』や『魔王』のように、戦乱の時代を見つめた歌集、
『薄明母音』のように、母堂への挽歌から成る歌集、
また『感幻楽』のように、
塚本のいう「稀用古語」の利用が、特に顕著な歌集を、
私は、いろいろと思い浮かべてみた。

総体的な印象という次元においてであれば、
なるほど、これらの歌集は、
上記の命題と、必ずしも正面衝突しないように感じられなくはない。
しかし、塚本の歌業における
「古典によって開かれた目」と、
「現実を鋭く直視」する能力や意欲の関係について、
明らかな言葉で定式化してみせることが、
どうしてもできそうになかったのである。

そこで、発想を逆の方向に転じてみた。
古典によって「目を開かれる」ことが一向になく、
悪い意味での「稀用古語の頻用」や「古典臭」ばかりが、
際限なく昂じてしまったような歌人がいたとしたら、
塚本は、この場でどのような苦言を呈しただろうか。

それはきっと、

  この歌人は古典によって目を開き得なかったのみならず、却って自
  身の持ち味すら直視できなくなってしまった。

というものであったに違いない。
そして、この「自身の持ち味を直視できない」というキーワードに
思い当たった刹那、
私がこれまでうまく言い表せずにいた
『架空荘園』(1995)以後の紀野恵に対する不満足感が、
忽ちにして、言葉の結晶化を始めたのだった。

10月11日の小文「謎太郎の日記(5)」に書いたように、
他人の作品やパフォーマンスを批評することは、
自分をこっそり懺悔することでもある。
私が「中期紀野恵」を批判する言葉を見つけたということは、
即ち、私自身に対して薄々と感じていた
同じような行き詰まりの危険性について、
警鐘を鳴らしてくれる言葉を得たことをも意味する。

※続く

# by nazohiko | 2006-10-14 00:48
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by nazohiko | 2006-10-14 00:48 | ☆旧ブログより論考・批評等

はかなごゝろ・たびごゝろ

●蜑の子のむれにまじりて経なむと思ふ はかなごゝろを 叱り居にけり

●たびごゝろもろくなり来ぬ。 志摩のはて 安乗の崎に、灯の明り見ゆ

釈迢空の『海やまのあひだ』(1925)より。

「旅をする自分」を冷酷なまでに見据えた、
こんな歌が好きだ。

1首目の「蜑」は「あま」と読む。
海に潜って貝や海草を採る人々のこと。
「経なむと思ふ」という字余りが、
断ち切れぬ「はかなごゝろ」を象徴するように響く。

2首目は、
「もろくなり来ぬ」という言葉につられて、
初句を「たびごろも」と読み間違えそうになるが、
それは、迢空による絶妙の仕掛けなのかもしれない。

今よりも、もうちょっと若かった頃、
異国の大きな図書館に、
朝っぱらから座り込んで、
私は、この歌集を初めて読み通した。
いくつかの知っている歌に混じって、
「はかなごゝろ」や「たびごゝろ」の歌が目に入ってきた。# by nazohiko | 2006-10-13 00:07
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by nazohiko | 2006-10-13 00:07 | ☆旧ブログより論考・批評等

再び紀野恵のこと(3)

上記のような考えは、『架空荘園』を初読した頃から、
浮きし脂の如くして、脳内に漂っていたものだが、
それを一瞬にして凝固させる、天の沼矛となったのが、
週末に古書店で買ったばかりの
塚本邦雄『現代百歌園:明日にひらく詞華』(1993、花曜社)である。

当時には脚光を浴びていたのかもしれないが、
今ではあまり知られていない現代歌人の作品を、
多く評釈しているのが興味深くて、
この本を手に取ったのだけれど、
それはともかく、塚本は紀野の短歌も採り上げており、

  ●そは晩夏新古今集の開かれてゐてさかしまに恋ひそめにけり

を、主たる評釈の対照としながら、

  ●約せしはあぢさゐ色の絵空事絵日傘さしていづちにゆかむ
  ●ふらんすの真中に咲ける白百合の花粉に荷風氏はくしやみする
  ●海に浮く水母の数の沈黙を抱きつつこの秋を別れむ
  ●片肺のすこし翳れる秋よそれ空を斜めに見てをりたるは
  ●春浅き背中合せの沈黙を薄き用紙に書きて送らむ
  ●夕月夜三人が寄つて囁ける仙人掌色の故里のこと

にも言及する。

なるほど、塚本らしいピックアップであり、

  なまじっかな「写生」などでは到底生まれ得ぬ生き生きとした迫真
  力を持つ。

  今様、もしくは六百番歌合時代の技法が、さりげなく、見事に生か
  されていて心にくい。

等の評語は、読前の予想を外れるものではなかったが、
最後に発せられた、このような言葉が、
私にとって矛の一撃となった。

  警戒すべきは、稀用古語を頻用することと、そのための古典臭とも
  言うべき癖であろう。古典によって開かれた目は、現実を鋭く直視
  できよう。

まず、「稀用古語」の愛用では右に出る者のない、
塚本自身の発言であることに驚いた。
そして、塚本の古典観や文芸観(だと私が思ってきたもの)に
照らせば一見意外な、
「古典が、現実を鋭く直視する目を養う」という論法に、驚いたのである。

※続く

# by nazohiko | 2006-10-11 13:41
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by nazohiko | 2006-10-11 13:41 | ☆旧ブログより論考・批評等

謎太郎の日記(6)

短歌とか楽曲とか演奏会とかについて、
批評を書くというのは、
つまるところ、
自分がそのようにしたいと願いながら、
能力不足のせいで、できないままになっている事や、
自分の弱点であることを分かってはいながら、
これまた能力が足りずに、直せぬままでいる事を、
他人の作品を云々するという形式を借りて、
こっそり懺悔する行為でもあるのだ。

書いている途中で、
「またしても懺悔している自分」に気づき始めて、
書き終わったころには、
その文章が懺悔録に他ならないことを、
溜飲の下がる思いと共に、確信するに至る。
批評の筆先は、
いつのまにか、自分自身に向かっていたということを。

ところで、私の文章には、
「~であるようだ」
「~かもしれない」
「必ずしも~ではない」
「少なくとも~である」
「もしくは」
それから、カギカッコが多い。

あまり多くなってはいけないと、
書いている最中から、気にしてはいるのだが、
やめられないのだ。
慎重でありつつも、
もうちょっとファッショナブルな文体というものは、
身につけられないものか。# by nazohiko | 2006-10-11 00:40
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by nazohiko | 2006-10-11 00:40 | ☆旧ブログより論考・批評等

再び紀野恵のこと(2)

とはいえ、近年の紀野には「新古今調」や「新古典派」といったレッテルを、甘んじて受けなければならない部分があるようだ。

『さやと戦げる玉の緒の』(1984)、『フムフムランドの四季』(1987)、『閑閑集』(1988)、『水晶宮綺譚』(1989)、『奇妙な手紙を書く人への箴言集』 (1991)が相次いで刊行され、これらに基づいて自選歌集『二つのワルツ風アラベスク』や、『現代の短歌』掲載分(共に1991)が編まれるまでを、「前期紀野恵」の歌業と呼ぶことにするなら、この時期の作品に関する限り、紀野は『新古今和歌集』を初めとする古典と、確かに易々と戯れていたと言える。この時期の紀野は、平安時代や鎌倉時代の文芸に現れた語彙もモティーフも、自家の薬籠に整然と収めた上で、それらを詩心の赴くままに駆使してみせることができた。

しかし、6冊目の新作歌集『架空荘園』(1995)を境として、紀野と古典のパワーバランスは破綻してしまったのである。これ以後の「中期紀野恵」は、悪循環的な自己模倣を通じて「新古今調」或いは「新古典派」に収束していったのであり、言い替えれば、「かつて支配した相手に、今度は紀野自身が絡め取られる」形において、もはや「前期紀野恵」の天衣無縫な詩心の発露が見られなくなった短歌を、粛々と生産するようになった。「新古典調」や「新古典派」といった自己規定が先行するタイプの、ルーティーン気味な作品である。

それらが「職人的な擬古」あるいは「古歌の贋作」として優等であれば、「前期紀野恵」とは別の評価基準によって賞玩することもできよう。だが「中期紀野恵」は、あくまで現代歌人紀野恵としての自我表現を諦めてはいないようなので、その作品は読者をもどかしくさせるのだ。「小生の詩」をスローガンに立てた与謝野鉄幹が、やがて陥ってしまった自縄自縛の状態と、「中期紀野恵」の停滞には、通じるものがあると言えるかもしれない。

上に「近年の紀野」と書いたが、デビュー歌集『さやと戦げる玉の緒の』から『架空荘園』までが11年、『架空荘園』から『La Vacanza』(1999)と『午後の音楽』(2004)を経て、現在に至る時間も同じく11年である。『二つのワルツ風アラベスク』の発刊や『現代の短歌』への寄稿と並行して、『架空荘園』収録歌の制作は始まっていただろうから、「中期紀野恵」は既に15年を閲しているという計算になる。紀野ファンである私には、ほんの一瞬のように錯覚されるけれども、天の岩戸は長らく閉じたままなのだ。

もちろん紀野の近作にも、「前期紀野恵」が健康に成長を続けたかのような秀歌があるし、「新古今調」や「新古典派」への傾斜を打破したいという意欲も、枯れてはいない気配だ。「中期紀野恵」がこれまでに発表した『架空荘園』『La Vacanza』『午後の音楽』の3歌集には、漢詩(それも手垢の少ない宋明時代の詩)やイタリア・ルネサンス文化など、「前期紀野恵」が取り組むことの少なかった題材を、まとまった形で導入するようになった。特に『La Vacanza』は、その題名が示す通りに「イタリアもの」の歌集となっており、私は紀野の復活を予感したものだが、しかし現段階の紀野は、自在に戯れたり十全に支配したりできるほどには、これらの新しい語彙やモティーフに慣れていないようである。今後の動向を注視したい。

また、「中期紀野恵」は(私の知る限り)5年ほど前から、連句の分野でも活動するようになった。紀野のホームページ「静かな海と楽しい航海」には、不正転載を避けるためかもしれないが短歌は一切掲載されず、紀野の参加した連句が合計6巻アップロードされている。いずれも「新古今調」や「新古典派」の自己制約に封じ込まれない、闊達な筆致だ。個人プレイである短歌制作とは違って、宗匠や連衆との関係の中で、自身の果たすべき役割が刻々と変わる連句という場に、紀野は歌人としての突破口を求めているのかもしれないが、このまま連句家紀野恵の本格的開花を心待ちにしたいところでもある。# by nazohiko | 2006-10-10 19:37
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by nazohiko | 2006-10-10 19:37 | ☆旧ブログより論考・批評等

再び紀野恵のこと(1)

先週金曜の日記に、紀野恵の短歌を採り上げたが、初めて紀野の作品に出会ったのは、大学1年生の頃、講談社学術文庫の『現代の短歌』(高野公彦編)を読み進めていた時だった。総勢105名に及ぶ歌人の代表作を集めたアンソロジー本である。

  年代記に死ぬるほどの恋ひとつありその周辺はわづか明るし

この歌に始まる上田三四二の項目は、分厚いアンソロジー本の中程にあって、まさに「わづか明るく」灯明が点るようだったが、全105名の104番目に登場した紀野恵も、忘れられない異彩を放ちながら、目に飛び込んできた。生年順に並べられたアンソロジーなのだが、最後から2番目という絶妙のタイミングが、紀野の出番に華を添えるようでもあった。

以下、ひとつひとつ例歌を挙げてゆくのは、長文に過ぎてしまうので避けておくが、紀野の短歌を「新古今調」や「新古典派」のレッテルで片付けてしまうことには、私は反対である。紀野の作風として

 ●ふっくらとした語感に、切なげな余韻が籠もる
 ●艶やかなヴィジョンが呈示されるが、それは儚げでもある
 ●けろっとした言葉遣いの奥から、不安や感傷が染み出てくる

などを思い付くことができるが、これらは必ずしも『新古今和歌集』や、その他いくつかの古典からの影響には帰せられないと、私には見受けられるのだ。

「必ずしも」という留保の言葉を使うのは、第1に、紀野と私それぞれの眼に映った『新古今』が、全く同じものではあり得ない故に、私の基準で「紀野の短歌における『新古今』の影響」を測っても無意味だからである。第2に、歴史には"if"が無用だからであり、つまり「もし紀野が『新古今』を読まないまま歌人になったら、どんな短歌を作っていたか?」という対照実験は、技術的にも人道的にも不可能なことだ。

さて、私にはむしろ「紀野恵」という一塊の歌才、或いは一塊の感情が、『新古今』などの古典に含まれる語彙やモティーフを、紀野自身の欲する文脈の上で軽々と支配する有様こそが、紀野短歌の魅力であり、本質でもあるように思われるのである。あたかも源実朝の作品が、深く読めば「新古今調」でも「万葉調」でもないのと同じように。実朝の和歌たちは、コーヒーゼリーに喩えると分かりやすいが、それらに備わった苦さ・甘さ・黒さ(暗さではなくて)・透明さ・震えやすさは、師の藤原定家にも『万葉集』にも回収不能なものだ。実朝和歌に通底する、奇妙に晴れやかな「喪失の予感」についても然り。少なくとも、私の把握する限りの定家作品や万葉歌とは、ジャストフィットしないのである。

※続く

# by nazohiko | 2006-10-10 15:17
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by nazohiko | 2006-10-10 15:17 | ☆旧ブログより論考・批評等

けふは十六夜なり

アイドル歌謡には疎いので、
シングルCDというものを、ほとんど持っていないが、
それだけに、数少ない所蔵品は、
いずれ劣らぬ名曲だと思っている。

小林恵の「十六夜~IZAYOI~」は、
「世界ふしぎ発見!」のエンディング曲として流れていたのを、
いたく気に入って、手許に置かずにいられなくなったものである。
細長い紙のジャケットには「99・4・17」と刷られているから、
今から7年前のことだ。

私がCDを求めるまでに魅入られた歌手や曲は、
必ずと言ってよいほど、流行らずに消えてしまうのだが、
この一枚も、現在ではちょっとしたレア物であるらしい……。

♪ 夢よ紅き夢よ 切ないばかりなら 
♪ 十六夜の月に酔いしれて 君を忘れたい

憶えている人は、手を上げて! # by nazohiko | 2006-10-07 21:17
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by nazohiko | 2006-10-07 21:17 | ☆旧ブログより歳時の話題

けふは8月16日なり

赤い月サンバブラジル聖木曜海からぬつと昔の恋が (紀野恵)

雲が晴れて、
中秋の名月が見えますように、
おまじなひの歌。

今日は金曜なのだが、
まあ気にしないことだ。# by nazohiko | 2006-10-07 18:38
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by nazohiko | 2006-10-07 18:38 | ☆旧ブログより歳時の話題

回転する錯視もあるのだ

http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/

知覚心理学者・北岡明佳さんのホームページ。 # by nazohiko | 2006-10-06 12:50
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by nazohiko | 2006-10-06 12:50 | ☆旧ブログより随想・雑記等