by 謎彦 by なぞひこ
by Nazohiko


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映画「のび太の恐竜2006」寸感

 アニメ版「ドラえもん」の絵柄や声優が新しくなってから、初めての映画となった本作は、1980年の第1作と同じく、漫画版第10巻の「のび太の恐竜」に基づくものです。

 旧来のアニメ版に親しんできた私には、「ドラえもん」という題名のアニメ作品として受け入れるには、少なからぬ違和感がありました。登場人物の声色は、もとより大きく変更されていなかったせいもあり、すぐに慣れましたが、絵柄は登場人物の目つきを初めとして、旧アニメとも漫画ともはっきり異なるようでした。目つきの違いは、人物全体の印象を左右してしまう要素です。

 一方で、これを今後の「ドラえもん」アニメとして祝福してよいか否かは、まだまだ未知数だとしても、さしあたり「ドラえもん」という往年の名作に対するオマージュ、あるいはパロディとして、言い換えれば「藤子・F・不二雄のテーマによる変奏曲」として受け止めてみるならば、優れた点の多い作品だったと思います。

 まず登場人物の設定については、ジャイアンが若干幼い風貌になり、しずかちゃんが「成熟した」というよりは「小学校5年生の女の子として、リアルな雰囲気を加えられた」ように思われましたが、これらの変化によって、のび太・しずか・ジャイアン・スネ夫の4人組が、旧来の年齢不詳(なおかつ相互の年齢関係が不詳)な感じから、小学校5年生同士の均質性を匂い立たせるようになりました。これはこれで、おもしろいじゃない(←出典わかりますか?)。

 作画の特徴としては、近年のアニメ作品の例に漏れずコンピュータが多用されているようでしたが、登場人物の顔がアップになった時など、わざと手描き風に線が引かれていて、好感が持てました。恐竜時代の峡谷を飛び回るなど、スペクタクルな場面では、これぞ日本アニメと評するべき構図力と技術力がふんだんに投入され、上述の手書き風と長所を補い合うところが大でした。

 1980年の映画「のび太の恐竜」の内容を、細かい部分はともかく一応は覚えていましたから、どうしても比較しながらの観賞となりがちでしたが、終盤に登場するタイムパトロール隊の役割が小さくなり、主役陣が秘密道具や、道具を使いこなす知恵の力によって、あくまで自力で旅を完結させるという物語になっていました。これは意義深い変更だったと思うのですが、その割には、タイムパトロール隊に連れて帰ってもらうことを辞退し、再び自分たちだけで目的地をめざす場面から、ついに辿り着く場面までの間が、簡単に済まされすぎたきらいがあります。

 恐竜ハンターの2人が、明らかに現代の欧米人の姿をしていたのは、敵役としての底知れなさを限定してしまう感があり、賛成できませんでした。もっと無国籍で未来風の造形のほうが良かったように思います。

 そして、ラストシーンでは歴年の映画と同じく、主役陣が何事もなかったかのように日常世界に戻ってゆきました。来年の今頃は、その「何事もない」日常生活を描きながら、次作が幕を開けるのでしょうが、どうせ旧来のアニメ版や映画版と一線を画そうとするなら、いっそ結末の「お約束」を一度くらい破ってもよかったかもしれません。恐竜時代の冒険を通して、自分たちにもたらされた経験や成長、また人間関係の変質を引きずりながら、主役陣が帰宅後の日々を送りはじめる……今までにそうした結末がなかったわけではありませんが(例えば「のび太と鉄人兵団」)、十分に打ち出されたことはなかったのです。

 さて、映画を含めて旧来の「ドラえもん」アニメを引き合いにしながら、ここまで寸感を述べてみましたが、今年の「のび太の恐竜2006」に見られたドタバタ色には、漫画版(特に前期の)を思い起こさせるところがあり、その意味では旧来のアニメ版よりも「原作に忠実」な映画だったと言えるでしょう。# by nazohiko | 2006-03-21 23:22
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by nazohiko | 2006-03-22 23:22 | ☆旧ブログより論考・批評等

東京都交響楽団「プロムナードコンサート No.317」寸感

東京都交響楽団「プロムナードコンサート No.317」
2006年3月21日 午後2時 サントリーホール
広上純一(指揮・フォルテピアノ) 林美智子(メゾソプラノ)

◆モーツァルト:交響曲第31番 K.297(300a)
◆モーツァルト:コンサート・アリア「どうしてあなたが忘れられよう」 K.505
  広上純一(フォルテピアノ) 林美智子(メゾソプラノ)
◆マーラー:交響曲第4番
  林美智子(メゾソプラノ)

 私にとって最大の収穫は、休憩後に演奏されたマーラーの第4交響曲でした。マーラーの作品は、音楽進行の構成(通時的な構造)や、音響群の重層具合(共時的な構造)が、あまり分かりやすくないと思うのですが、広上純一の指揮する東京都交響楽団は、それらをいずれも明快に、なおかつ各部分に十分な精彩を持たせて、かといって間断したり分裂したりすることなく聴かせてくれました。こうした演奏方針は、モーツァルトの交響曲の中で最も「肥大」した姿を持つ、第31番にも活かされていたと思います。

 おかげで、この曲の構造面やテーマ面について、私なりに頓悟できた(つもりの)ところが少なくなかった一方、第4交響曲やマーラー作品全般に対して今まで抱いてきた理解や感情移入が、ありゃりゃと覆されたり挫折したりする瞬間も多々ありました。かつて内田百間は、或る演奏会のあとで「聴き慣れた曲なのに、自分の耳に入っていなかった音が、まだまだあったようだ」という意味の感想を述べましたが、私の印象も、この言葉にいくらか通じていそうです。

 今回の演奏における白眉は、最終楽章の結尾に至って、それまでト長調を基本として進んできた楽曲がホ長調の弱奏に転じ、そのまま締め括られてしまうところでした。突如キーが下がることによってもたらされる、柔和でありつつも我々を静謐に拒絶するような終結……そんな変調を、各楽器の音色も林美智子の声色も、こぞって存分に表現してくれました。私は絶対音感がイマイチですので(聴力テストの成績はそこそこなのですが、間違い方が絶対音感保持者と質的に異なるそうです)、従来ここでの転調効果を十分に感得できなかったのですが、今回初めて感覚として味わうことができた次第です。

 そしてホ長調の結尾は、ハープの低音とコントラバスだけで「消え入るように」というよりも「運動エネルギーを失ってゆき、ついに静止する如く」閉じられましたが、特にコントラバスだけが残ってから、広上純一が最後の指揮ポーズを解く瞬間までの10秒余こそは、音楽によって「静止」が表現された例の中でも、最も雄弁で強靭で聡明で冷厳な「静止」の一つだったと思います。# by nazohiko | 2006-03-22 00:16
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by nazohiko | 2006-03-22 00:16 | ☆旧ブログより論考・批評等

ついでながら……

ミラ・リャン(梁美娜)選手から、目が離せなくなりました。
いつの日か、異端児が風雲児とならんことを。

【旧ブログには画像あり】

# by nazohiko | 2006-03-04 23:38
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by nazohiko | 2006-03-04 23:38 | ☆旧ブログより随想・雑記等