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マラソン・リーディング2003寸感

 短歌を中心とした朗読会「マラソン・リーディング2003」を覗いてきた。午後3時から8時まで計32組が、殆ど一人で演壇に上がった。近年流行しているらしいポエトリー・リーディングというものを初めて見聞したのだが、あいにく私は「良き観客」になり得なかったようで、つまるところ「ときどき面白い部分があった」というのが感想である。とはいえ、全くピンと来るもののない、異教の祭典に参列するような気分だという訳でもなかったのであって、気がついたことを以下に数言してみたい。

 第一に、初級者的かつ悪い意味での自己陶酔や自己顕示欲の目立つ朗読テクストが多かった。尤もそれ自体は結社誌・同人誌・商業誌・商品歌集・ウェブサイト等の文字媒体でも大同小異なのだが、興味深かったのは、そうしたテクストの作者ほど、朗読にあたって鬼面人を驚かすが如き衣装やパフォーマンス、奇声や喧噪なBGMに頼る傾向が見受けられたことである。私は決してストイシズムだとか、一種の原理主義を要求しているのではない。例えば東直子氏の演目構成――身体に巻いてあったリボンを解きながら、裏側に綴られた短歌(誕生日の祝歌なのに何処となく挽歌の香りがする!)を順次読んでゆき、最後にそのリボンで花束を縛るや、客席の暗闇へ放り投げてしまう――には、いやはや息を呑まされた。一方で斉藤斎藤氏(短歌)・柴田千晶氏(現代詩)・雪舟えま氏(ベートーヴェン第9交響曲の訳詩)のステージは、上記のような意味では全く素朴でありつつ、朗読の行為として大変に印象的だった。段々と高まってゆく客席の笑声に対し、巧みなタイミングや調子で次の1首を繰り出していった斉藤氏には、特に拍手を。


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 「マラソン・リーディング2003」で気づいたことの第二。私は文語を目で見た時には、かなりストレートに感受できるつもりなのだが、音声として耳に届いた時には言語としてのアクチュアリティが不足するようで、朗読テクストの中に文語作品が挟まれる度に、掴み所のないような、何だか演者から仲間外れにされているような心持にしばらく陥った。「音楽家」足立智美氏の、ドイツ語の音韻を様々に組み合わせた「変奏曲」には、そのような感触を覚えなかったので、「異形の言語」イコール「朗読には不適」という訳でもなさそうである。

 この問題に即して、幾つかのステージを回想してみるに、錦見映理子氏の短歌はすべて文語だったが、同じく文語による詞書を大半の歌に配してあり、かつ朗読テクスト全体が『文語訳聖書』を意識した文体で統一されていた。また高橋睦郎氏の現代詩は口語部分と文語部分が交替する形になっていたが、文語部分は『万葉集』と聞き紛うばかりの長歌になっており、そこには文語的前置きが何もなかったというのに、錦見氏の短歌ともども、私の耳は音声としての文語にしっかりと食いつくことができた。思い切って日常言語から遠く離れた文体を採ったことにより、その「異形の体系」ぶりが却って一つの言語的アクチュアリティとして働きかけてきたのだろう。一方で、両氏の文体ともに、『文語訳聖書』や『万葉集』という、私たちが決して未知ではない雛形を用いている点にも注目するべきかと思う。いずれにせよ、現代の書き言葉と限りなく地続きなものとして混在させられたと思しき「汎用的近代文語」こそ、朗読の舞台にあってはむしろ目論見が裏目に出てしまったのである。


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 「マラソン・リーディング2003」で気づいたことの第三は、口承文芸におけるリフレイン的構成の効用である。このことは日本の古代歌謡や西洋の叙事詩についての論考を読んで、既に自分の知識にはなっていたのだが、今回初めて詩歌の朗読に触れて、そうした構成法が聴衆に感動を与えるための技巧であるのみならず、時として不可欠であるほど重要であることを思い知らされた。一篇の多行詩や一組の短歌群を黙読する時には、読者はいつだって視線を冒頭に戻し、作品あるいは作品群としての流れを改めて俯瞰することができる。しかし、朗読を聴く場合はそれが不可能だ。故に「これまでのあらすじ」を思い出させてくれるための刺激剤として、リフレイン要素が有効になるのである。そしてその際、リフレインとは既出語句を反復するものではあるが、朗読済みの内容を要約的に回顧する言葉ではないため、進行中の作品の流れを止めてしまうという副作用がない。

 第四に、かといって「朗読された具体的な言葉が、鑑賞中や鑑賞後の記憶によく残っていること」と「朗読テクストや朗読の行為として優れていたこと」は、必ずしもイコールにならないという認識を新たにした。これは黙読の場合にも言えることだが、朗読を聴く場合に一層顕著であるように思われ、また多行詩よりも、1行ずつが独立している短歌や俳句について宿命的に著しいという発見である。実を言えば、私は前号で錦見映理子氏の短歌朗読を称賛したが、錦見氏によって発せられた短歌や詞書の一片たりとも今や覚えていない。テーマや文体に関する僅かな記憶を除いては「よい詩歌に触れた。よい朗読を聴いた」という幸福感ばかりが残り、それは今も脳裏を満たしている。そんな朗読を、そんな極端な体験を、私はもう少々追いかけてみようかとも思う。


初出:「塔」2003年7-9月号 # by nazohiko | 2003-07-01 00:00
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by nazohiko | 2003-07-01 00:00 | ☆旧ブログより論考・批評等