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カテゴリ:◆音楽を聴く( 22 )

12 Lieder von Franz Schubert


こんな「良い音楽」ばかり聴いていてはいけない。
しかし、たまには聴かなければいけない。

シューベルトの歌曲(全12曲)

  An die Musik D.547
  Im Frühling D.882
  Wehmut D.772
  Ganymed D.544
  Das Lied im Grünen D.917
  Gretchen am Spinnrade D.118
  Nähe des Geliebten D.162
  Die junge Nonne D.828
  An Silvia D.891
  Auf dem Wasser zu singen D.774
  Nachtviolen D.752
  Der Musensohn D.764

歌:エリーザベト・シュヴァルツコップ
ピアノ:エドウィン・フィッシャー
録音:1952年、ロンドン

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by nazohiko | 2017-03-01 21:38 | ◆音楽を聴く

プーランクの「オルガン、絃楽、ティンパニのための協奏曲」



フランシス・プーランクの「オルガン、絃楽、ティンパニのための協奏曲」。

オルガンと管絃楽が対等に組み合わされるタイプの楽曲は、
オルガンのパートが(悪い意味で)デジタル、かつ大味に聞こえてしまいがちだ。
私のようにオルガンに親しみの薄い者にとっては、
極端な言い方をすれば「管絃楽の邪魔」でしかない代物として、
音の前景に立ち塞がるようなイメージを抱かされることさえ、しばしばある。

この、プーランクが1936年に完成した協奏曲は、
ぜひとも楽譜の画像を目に入れながら、演奏を聴いていただきたい。
楽曲の各部分(或いは一瞬一瞬)において、
そこに設けられた「響きの構造」や、作曲者が「各楽器にやらせたかったこと」が、
ひとつひとつの音符を丁寧に追いかけることなく、
楽句や和音のかたちを漫然と俯瞰しているだけでも、
手に取るように分かる、分かる、分かる。

この曲は、オルガンの「如何にもそれらしい」風情の独奏に始まり【0:00】、
最後も、オルガンが強奏で和音を伸ばしているところに、
管絃楽が「ジャン!」の一撃をプラスするというもので【22:43】、
とにかくオルガンの待遇が良い。

ちょっとやり過ぎの感さえある、音栓(ストップ)の取っ替え引っ替えぶりを含めて
(例えば、唐突にクラリネットもどきの音色が用いられる【16:30】)
プーランクはこの曲の制作過程において、
まずはオルガンに「オルガンっぽい音楽」を、存分にやらせることにしたのだろう。
そんな趣向の背後に、オルガン音楽の伝統に対するパロディ精神があったか否かは、
私はこの曲を幾度も聴き返してはいないので、今のところ判断が付かない。

プーランクの巧さが光るのは、オルガンという尊大な独奏楽器を、
管絃楽の陣地に、それほどまでに懐深く受け入れてみせた上で、
或る時には、オルガンには到底「ついてゆけない」音色及び運動というべき、
弦楽器による極高音域の走句を、管絃楽の側から閃かせてみるし【7:35など】、
また或る時には、オルガンと管絃楽の響きを「仲介する」ものとして、
低音絃楽器の弾奏や、ティンパニを活用する【0:23など】というバランス感覚である。

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by nazohiko | 2016-11-05 00:16 | ◆音楽を聴く

オテロの第一声!(3)

ヴェルディの歌劇「オテロ」には、実は前奏曲(preludio)が準備されていたのである。
お蔵入りとなってしまった、世にも珍しい「オテロ」前奏曲を、
リッカルド・シャイーの指揮するMilan Symphony
(ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団か?)の演奏で
聴くことができるようになったから、Youtubeはありがたいものだ。



歌劇「オテロ」の思い出に基づく幻想曲……として聴くなら、一応の甲斐はあると思う。
しかし、私たちがよく知る第1幕の冒頭
(あれは、如何なる他の音楽にも替えられない)に繋がるべき曲としては、
楽曲自体の脆弱さや、本篇の中途半端な予告ぶりといった欠点が目立つ。

特に、1:00頃から始まる、
オテロの第一声をトランペットで吹奏する部分は、蛇足としか評しようがない。
第1幕の最初のクライマックスとなる旋律を、こんな所で聴衆に漏らしてしまっては、
肝心の第一声からインパクトが削がれてしまうし、
声楽の模倣であることがあからさまな、トランペットのフレージングは、
たとえ逆立ちしたところで、「歌の力」において人声に匹敵できない。

ヴェルディがオテロの第一声を、どのように歌ってほしかったのか、
憶測を逞しくするための材料としては、一定程度に役立つだろうけれども。
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by nazohiko | 2016-07-10 23:23 | ◆音楽を聴く

動画で視る、ワーグナー「パルジファル」の鐘

舞台裏から聞こえる鐘の音といえば、
ワーグナーの「パルジファル」に出てくる、「C-G-A-E」の繰り返しも忘れ難い。



この動画は、それぞれ1882年・1914年・1926年に作られた、
「パルジファル」専用の「鐘の音マシーン」を鳴らしているところだ。

鐘というよりも、4つの音を発することに特化したピアノのようなものである。
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by nazohiko | 2016-07-04 21:25 | ◆音楽を聴く

動画で視る、ベルリオーズ「幻想交響曲」の鐘

管絃楽の打楽器だけを映し続ける動画が、Youtubeに少なからずある。
これらの動画を視ると、耳慣れたはずの楽曲が、意外な箇所で打楽器を使っていたり、
記憶していたのとは異なるタイミングで、打撃が入ったりするのに気付かされる。

もしや、と思って検索してみたところ、
ベルリオーズ「幻想交響曲」の第5楽章から、
舞台裏で鐘を打つところを撮影した動画が、さしあたり4篇見つかった。




以上いずれも、David Valdés(Asturias Symphony Orchestra)。
舞台裏に陣取って、右手で高音の鐘(C)を打ち、左手で低音の鐘(G)を打つ。


William R. Hudgins(Boston Symphony Orchestra)。
やはり舞台裏だが、両手を使って高低の鐘を打つ。


奏者は不明(Royal Concertgebouw Orchestra)。
ロビーのような場所に鐘を持ち出し、右手は高音の鐘を、左手は低音の鐘を打つ。
鐘が逆さに立てられており、奏者は内側を叩くというのが特徴的だ。

4篇の動画を視ながら、私は今更のように、
鐘のリズムと音高が、徹底して「C-C-G(等間隔)」の繰り返しであることを意識した。
金管楽器を中心として進んでゆく旋律と、鐘の音の「付かず離れず」の妙には、
こんなあたりに、秘密のひとつがあったようである。
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by nazohiko | 2016-07-04 20:40 | ◆音楽を聴く

1812年

https://www.youtube.com/watch?v=8lZ5Yez0Hec

スウィングル・シンガーズ(Swingle Singers)による、
チャイコフスキーの「大序曲 1812年」。

この曲の「カッコ良さ」と「情けなさ」、
この曲のテーマの「崇高さ」と「バカバカしさ」を、
いずれも十全に表現してみせた快演と言えよう。
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by nazohiko | 2015-05-31 15:01 | ◆音楽を聴く

ありがとうサヴァリッシュ翁

 長年にわたってNHK交響楽団を指揮したヴォルフガング・サヴァリッシュが、今年の2月下旬に逝去していたことを、昨日放送された追悼番組で知った。

 サヴァリッシュの演奏は堅実にして優雅、そして間違いなく昂奮を与えてくれた。中学生の頃にクラシック音楽を聴き始めた私は、NHK-FMで中継されるN響の定期演奏会を欠かさずエア・チェックし、頻繁にその指揮台に立っていたサヴァリッシュから、音楽というものを少しずつ教えられたような気がする。

 私にとって最も印象深いサヴァリッシュの演奏は、N響の第1000回定期演奏回で採り上げられたメンデルスゾーンのオラトリオ「エリヤ」と、バイエルン国立歌劇場で上演されたワーグナーの「ニーベルングの指環」だ。最も頻繁に耳を傾けるのは、フィラデルフィア管弦楽団と共演した一連のリヒャルト・シュトラウス作品である。

 ありがとう、サヴァリッシュ翁!
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by nazohiko | 2013-03-10 16:30 | ◆音楽を聴く

L'ho perduta, me meschina!

 モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」は全24曲から構成されるが、そのほぼ全てが長調を主体とする。苦しみや不安や焦燥までも長調によって描き出してしまう、巨匠の腕前には感嘆する他なく、またそうした瞬間に、あくまで長調音楽の範囲内で出現させられる「陰影」の印象深さには、下手な短調音楽が束になっても敵わないと思うが、それはさておき、第4幕の冒頭にたった1つだけヘ短調の曲を置き、それまで出番の少なかった少女バルバリーナに歌わせるという趣向と、そしてその小さなカヴァティーナ"L'ho perduta, me meschina!"を、私はこよなく愛する。

 僅か30小節余りで途切れてしまう上に、歌っている内容も「預かったピンをなくしてしまった……どうしよう?」というに過ぎないため、オペラ史上屈指の佳曲でありながら、従来ソプラノ歌手のアリア集に収められたり、独唱会の演目に加わったりすることはめったになかったと言える(この点は、オテロの凱旋宣言"Esultate!"と共通している)。パトリシア・プティボンが「恋人たち」と題して、ハイドンやグルックやモーツァルトのアリアを取り集めたCDに入っているのが、私の知る数少ない例の1つである。

 これに対して、Youtubeにはバルバリーナのあのヘ短調が、意外なほどたくさん転がっているではないか! 今晩その事に気付かされてから、昂奮に任せて次から次へと、数多のバルバリーナたちに"L'ho perduta!"の嘆声を上げさせてみたが、その作業はまだまだ終わりそうにない。

http://www.youtube.com/results?search_query=L%27ho+perduta+mozart&oq=L%27ho+perduta+mozart&gs_l=youtube.3...59109.60703.0.61281.7.6.0.1.1.0.125.609.3j3.6.0...0.0...1ac.1._vi-xsls5Iw

 私がこのカヴァティーナについて求める歌唱のあり方は、独立の1曲として栄養感たっぷりに歌い上げることでもなく、プリマ・ドンナの十八番として円熟味いっぱいに喉を効かせることでもなく、例えばベーム指揮の1968年録音盤におけるバルバラ・フォーゲルの表現が、今のところ理想に最も近い(というか、それが私が最初に出会ったバルバリーナなのだけれども)。「フィガロの結婚」の初演でバルバリーナ役を務めたアンナ・ゴットリープが、当時12歳(!)であったという事実が、もっと現代のバルバリーナたちに深く意識されるべきではないか。因みにゴットリープはその5年後、17歳で「魔笛」のパミーナ役を初演することになる。

 フォーゲルのすばらしい歌声はYoutubeに出ていないようなので、今すぐ皆様にお聴かせできないのが残念だが、代わりに次善の歌唱として、同じベームの指揮により、それぞれマリア・ヴェヌーティとジャネット・ペリーがバルバリーナを歌う映像を、以下にご紹介しておくことにしよう。どちらの映像でも、指揮・歌唱共に1968年録音盤に比べて芝居がかっているのが玉に傷である。

マリア・ヴェヌーティ
http://www.youtube.com/watch?v=h_e58H7xmII

ジャネット・ペリー(46:28より)
http://www.youtube.com/watch?v=H9CDJoygw4w

 このカヴァティーナを管楽で演奏している映像も、Youtubeの中に見つけた。著名なアリアやアンサンブルに事欠かない「フィガロの結婚」の中で、わざわざこの小曲が管楽にアレンジされるのも、なかなか珍しいことではあるまいか。

Trio Eccentrico(フルート・クラリネット・ファゴット合奏版)
http://www.youtube.com/watch?v=S2FuctUfRqA
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by nazohiko | 2013-03-03 23:05 | ◆音楽を聴く

ハイドンの交響曲第60番ハ長調"Il Distratto"(4)

 音量を上げてじっくりと向き合うにも、音量を絞って執務のBGMとするにも十分に適するという音楽は、なかなか見つかるものではない。バッハとハイドンの器楽曲は、そうした意味において「世界の名曲」の頂上に立つものだろう。

 思えば、両者は意外に似た者同士なのである。例えば「中庸の健康美」と「それだけでは済まないもの」や、「続きを予測できる安心感」と「予想を裏切られる快感」が、バランス良く共存していること。更に、これはBGMの条件として重要なのだが、原則として音量や速度の振り幅が大きくないこと。

 なお、「歌唱を含む楽曲は、文章を書いたり絵画を描いたりする際のBGMに適さない」と言われることがあるけれども、それはあらゆる場合に当てはまる真理ではない。なおかつ、歌詞に用いられた言語を、聴き手が十分に聴き取れるのか、或る程度までなら意味を掴めるのか、何のことやら見当も付かないのかによっても、条件は異なるというものだ。

 それに……仮にモーツァルトの作品でBGMを固めるとして、颯爽たる交響楽やセレナードが暫く続いた後に、バルバリーナが"L'ho perduta, me meschina..."と呟く36小節のカヴァティーナ(ヘ短調!)が、ふと現れるというのも悪くないではないか?
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by nazohiko | 2013-03-02 01:02 | ◆音楽を聴く

承前

 このように考えている時に、ふと思い出した文章がある。長谷川如是閑(1875-1969)が、『万葉集』の冒頭に置かれた伝・雄略天皇作の歌を論じたものだ。

  籠もよ み籠持ち
  掘串もよ み掘串持ち
  この岳に 菜摘ます児
  家聞かな 告らさね
  そらみつ 大和の国は
  おしなべて われこそ居れ
  しきなべて われこそ座せ
  われにこそは告らめ 家をも名をも

 詩想が句を追って昂ぶりゆくのに、ぴったりと寄り添うかのように、この歌は概して、だんだんと1句の音数が多くなる。長谷川は、かくも自在に韻律を駆使できる者が稀少である故に、やがて「和歌」の形は、長歌(五七五七五七五七……七)と短歌(五七五七七)に固定されてゆく他なかったのだと述べる。

 私の言葉でその後を続けるならば、そうして「和歌=定型詩」という図式が出来上がってからは、まずは韻律において、やがては内容面においても、「和歌らしい作品」を捻り出そうとして自らを「定型」に填め込みたがる者たちが、果てしなく量産されることになったのである。
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by nazohiko | 2013-03-01 00:53 | ◆音楽を聴く