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カテゴリ:◆論考を読む( 11 )

ホラティウス『詩論』の本領(2)

そのように、賢明な人は狂気の詩人に触れることを恐れて逃げる。子供らは彼を追い立て、警戒せずにあとをつける。

  (中略)

なぜ彼は詩を書きまくるのか、よくわからない。父祖の遺骨に放尿したせいか、それとも雷が落ちた不吉な場所を穢したせいか――いずれ(に)せよ、たしかに彼は狂っている。そして、あたかも熊のように、邪魔な檻の格子を破ることができたなら、情け容赦なく朗読して、教養のある人もない人も逃げださせるだろう。だが、誰かを捕えたなら掴んで離さず、殺してしまうまで読んで聞かせるだろう――血をいっぱい吸うまで肌から離れまいとする蛭が!

ホラティウス『詩論』は、このように締め括られる(岡道男訳、岩波文庫、以下同じ)。
ここでは、「狂気の詩人」が「彼」という三人称で扱われ、
また、「賢明な人」が「恐れて逃げる」べき存在として言及されている。
文体という面でも、ドタバタ喜劇のようなユーモアがたっぷり振りかけてあるのだが、
それでも、このくだりに、ホラティウス自身の「狂気」が顔を覗かせているのを、
読者は感知せずにいられない。

ホラティウスはここまで、一貫して「賢明な人」の代表者として我々に語りかけ、
「賢明な人」によって安全に発信され、彼らの間で安全に管理されるべきものとして、
詩というコミュニケーション・ツールのありかたを論じてきた……ように見えた。

そんなホラティウスが、『詩論』の最後の最後に至って、
「詩をつくる人」や「詩をつくろうとする欲求」が、決して「狂気」と無縁ではあり得ず、
そうであるが故に、何かの拍子に「邪魔な檻の格子」を破ってしまうものであることを、
「かく言う私自身も、『賢明な人』と『狂気の詩人』の危ういバランスの中で、
 内面を維持しているのだよ」
という仄めかしを添えながら、我々に向かって宣告するのである。

実を言えば、「ホラティウス=『賢明な人』」という単純な図式が成立しないことは、
しばらく前のくだりで、既にチラッと明言されていた。

ああ、わたしはひねくれ者だ、陽春の季節が近づくと薬を飲んで胆汁を吐き出すのだから。そんなことをしなければ、ほかの者がわたしよりすぐれた詩をつくりはしないだろう。

岡氏の訳注に従って、この部分を解釈すれば、
当時通用の医学理論では、4種類あるとされた体液のうち、
胆汁(黒胆汁)が増えすぎてしまうと、狂気を発すると考えられていた。

ホラティウスはここで、自分の体内に胆汁(即ち、狂気の種)が満ち溢れていること、
自身が「狂気の詩人」として暴れ出すのを、故意に抑制しているに過ぎないこと、
そして、ひとたび「狂気の詩人」と化したならば、
誰よりも「すぐれた詩」をつくり得る、並外れたポテンシャルを持っていることを、
「ひねくれ者=敢えて『賢明な人』の道から飛び出さずにいる者」としての、
ほろ苦い自覚と共に、告白しているということになる。

ああ、それにしても、
たとえ一度でも「詩をつくる人」となったことのある者ならば、
「なぜ彼は詩を書きまくるのか、よくわからない」で始まる一連の言葉に、
きっと痛快を覚えることだろう。

そして、そのうちの少なからぬ人数が、
「ああ、わたしはひねくれ者だ」以下いくばくかの言葉にも、共感を覚えるだろう。
厳密に言えば、ホラティウスの「ひねくれ者」宣言に共感する人の中には、
そこに慰めを見出す人もあれば、誇りを見出す人もあるだろう。


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by nazohiko | 2016-11-05 22:05 | ◆論考を読む

ホラティウス『詩論』の本領

ホラティウスの『詩論(Ars Poetica)』を、
アリストテレスの『詩学(Peri Poietikes)』に比べて
浅薄だとか、卑小だとか評する人たちがいる。

アリストテレスの著作は、
「詩(の本質)とは何か、何であるべきか」を主題としたものであり、
即ち、そこでは "what?" の問いが中心となっている。

ホラティウスの著作は、
「詩とは、どのようなコミュニケーション方式であるか、
 コミュニケーションのツールとして、詩はどのように発信されるべきか」
を主題としたものであり、そこで中心を占めるのは "how?" の問いである。

アリストテレスが、ホラティウスに遥かに先立って、
「筋」「模倣」「統一」などの概念に、発展や深化を施しておいたにも関わらず、
ホラティウスは、それらの言葉を「アリストテレス以前の水準」で用いた等々と、
ホラティウスの著作に、アリストテレスからの「退行」さえ見出そうとする人も、
なかなか後を絶たないようだが……。

もとより同じ軸の上に乗っていないホラティウスの著作に、
アリストテレスという先行研究に対する「進歩」を求めても、無意味なことである。

もうちょっと厳しいことを言っておくと、
アリストテレスが在来の言葉を、独自の定義の下で用いたという歴史上の出来事を、
個々の概念にとっての「発展」や「深化」であったと、無検証のまま認めた上で、
ホラティウスに「退行」のレッテルを貼ろうとする人がいるなら、
そうした人は、二重の意味でお話にならない。

  ※もしかして、もしかすると、アリストテレスの著作こそ、
  ※詩について語ることの歴史(敢えて「系譜」とは呼ばない)の中で、
  ※最も壮大で、最も絢爛たる袋小路なのかもしれない……のだ。

閑話休題。
岩波文庫版に入っている『詩学』『詩論』の合冊で、岡道男氏の訳者解説は、
アリストテレスの著作を「哲学的立場から詩作をとらえている」とし、
ホラティウスの著作を「弁論術に通じる立場から詩作をとらえている」とする。

それはそれで、十分に理のある解釈だと思うが、
私の場合は、岡氏とは異なる視角から、
ホラティウスの所論は、平安時代~鎌倉時代の貴族社会における
和歌のありかたに、期せずして通じる所があるようにピンと来た。

気ままな思い付きの翼を、更に広げてみるならば、
ホラティウスが『詩論』と題する著作を通じて、究極のテーマとしたものは、
詩がコミュニケーションの一手段となるような、何らかの社会的集団の内部で、
ひとりの雅男(みやびを)として生きるための「道」だったのではないか?
逆に言えば、そんな「雅男の道」を指南するためのケースワークとして、
ホラティウスは、詩をめぐる "how" の問いを追いかけてみせたのではないか?

私がここで、わざわざ「雅男」という古語を選んでみたのは、
ホラティウスの著作に語られる(と、私が見受けた所の)「雅男の道」が、
詩のありかたに関する、具体的な認識内容まで引っくるめて、
京のみやこの貴族歌人たちと響き合っているなあ……という印象を、
こういう形でも、表現してみたかったからである。

最後にもう一言。
ヴァーツヤーヤナの『カーマ・スートラ(Kama Sutra)』も、その本質は、
一人前のナーガラカ(nagaraka、「粋人」や「洗練された市民」と訳される)が
身に付けるべき「道」を教えることにあると、私は解釈している。

そうだ、ホラティウスの『詩論』をアリストテレスの『詩学』と比べるよりも、
いっそのこと『カーマ・スートラ』と比較する方が、よほど実のある議論になるだろう!


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by nazohiko | 2016-11-05 18:34 | ◆論考を読む

アク・アク

 私は、アク・アクを持っていなかった。
 また、アク・アクがどんなものかも知らなかった。だから、たとえ持っていたとしても、使い方がわからなかっただろう。

 人類学者・考古学者トール・ヘイエルダールの『アク・アク:孤島イースター島の秘密』(山田晃訳、社会思想社「現代教養文庫」、1975)より、冒頭部分を録す。

 アク・アクとは何か? 彼はアク・アクを手に入れたのか? 私も、あなたも、アク・アクを持つことができるのか? それは敢えてここに書くまい (^^)
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by nazohiko | 2013-04-13 00:15 | ◆論考を読む

塚本邦雄の一言

  私はほぼ一昔前、
  有吉保教授所蔵・編纂のものを、編者から拝領して、
  はじめて、その(注:水無瀬恋十五首歌合を指す)全貌を知った。
  門外漢は、専門家の推察を越えるような、
  迂遠極まる古典享受の手続が要る。

  【中略】

  このやうな例は他にもあまたあり、
  私達のやうに善本・詳細資料に恵まれず、
  隘路を嘆き、暗中模索、儚い足掻を続けてゐる者も多からう。

 塚本邦雄『花月五百年:新古今天才論』(角川書店、1983)より。自宅のコンピュータを用いて、必要資料の所在を突き止めたり、資料そのものを入手したりすることが未だ不可能だった時期の、更に「一昔前」のことであるとはいえ、塚本のように「何でも書斎に持っていそうな人」が、実はこのような不便をかこっていたという発言に驚いた。そして、この発言には、今でも同感させられる。
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by nazohiko | 2013-01-31 23:30 | ◆論考を読む

オフィーリアとマクベス夫人

 松岡和子『「もの」で読む 入門シェイクスピア』(ちくま文庫、2012〈原著2004〉)は、シェイクスピアの各戯曲を、それらに登場する特徴的な「もの」に焦点を当てて読み解いてゆく短文集「シェイクスピア「もの」語り」と、女性の登場人物を次々に取り上げる「シェイクスピアの女性たち」の2部分から成る。

 同書の大部分を占める「シェイクスピア「もの」語り」から、私はあまり教えられる所がなかったのに対して、精彩を覚えたのは、むしろ附録的な「シェイクスピアの女性たち」の中の、「ガートルードとオフィーリア」と「マクベス夫人」の2篇である。

 松岡氏は指摘する。『ハムレット』の所謂「尼寺の場」でオフィーリアが発する台詞の「文体」には、語彙や語り口において父ポローニアスと通じるものがある。そして、こうした「オフィーリアらしくない」要素が、彼女の言葉が本心から出たものではなく、父にそうと言わされたものであることを暗示するのだ。それから、『ハムレット』全篇を通じて、オフィーリアの台詞には"I"(私)を主語とする文が少なく、また「尼寺の場」に続く登場場面である「劇中劇の場」では、ハムレットの突っ込みに対して、ほとんど「はい」や「いいえ」でしか答えないのだが、狂乱状態に陥ることで「自由」を獲得してからの彼女は、一転して命令文、即ち「自分の意志を通そうとする姿勢」に溢れた言葉を多く用いるようになる。

 『マクベス』で強い存在感を放つマクベス夫人については、彼女とその夫が王位奪取という野望において「一心同体」の結び付きにあることを、劇中の一連の事件をめぐって夫と交わされる対話の中に、幾度も現れる"we"(我々)という主語が如実に示しているのだという。更に、シェイクスピア劇の主役級登場人物の内で、マクベス夫人のみ名が付けられていない事実に注目して、松岡氏は、彼女がどこまで行ってもマクベスの「夫人」であるということが、二人の結び付きの堅さと、それが解けた時(バンクォー殺害の立案・実行からマクベス夫人が外されて以後)の両者の寄る辺なさを象徴するのだと述べる。
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by nazohiko | 2013-01-17 00:56 | ◆論考を読む

断片たちの向こうに見える「ソクラテス以前」

 廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫、1997〈原著1987〉)を読んだ。

 所謂「ソクラテス以前」のギリシア思想は、「断片」と総称される資料によってしか知ることができない。その1種は、思想家本人の著作が他者の著作に引用されるなどして、断片的に伝世したものであり、もう1種は、他者による要約や言及を通して、思想家本人の書いた言葉や、話した言葉の内容を窺い得るものである。なおかつ、廣川氏によれば、それら「断片」たちの多くは、ソクラテスの孫弟子であるアリストテレスによって収集されたおかげで、幸いにも散佚を免れたものである。アリストテレスに省みられなかった思想家や著作は、その大半がもはや我々の手の届かない世界に去ってしまったというわけだし、また「ソクラテス以前」の思想史を復元しようとする営みは、アリストテレス自身の思想や思想史観に影響されて、必ずしも実状に即しない航跡を作図してしまう危険性が高いと言えるから、事態はいよいよ厄介である。

 廣川氏は、アリストテレスが「ソクラテス以前」の思想家を軒並み「自然学者」に過ぎない(アリストテレスの定義に適う「哲学者」ではない)と断じたことに疑念を呈し、彼らが「神的なもの」「自己の内的世界」「国家・社会の問題」等にも強い関心を懐いていたことを、残された「断片」の読み直しを通して主張すると共に、そうした観点から、思想家たちの影響関係についても定位を試みる。文中に提示された幾つかの「断片」のみによっては、氏の描き出す各思想家の姿に説得力が欠けると思われた箇所や、氏による「断片」の解釈に根拠不足を覚えてしまった箇所もあるが(いずれも、私が予備知識に乏しい故の困惑に過ぎないのかもしれない)、かつてアリストテレスによって嵌められた枠組には収まりきらない「ソクラテス以前」の思想の流れというものを、朧気ながらも私なりに把握することができたようであり、読後感の針先は「満足」の側に傾いている。

 同書は、前半部分が廣川氏による論考、後半部分が「ソクラテス以前」の思想家たちに関する「断片」の内で、彼ら自身の著作が部分的に現存するものの(現代日本語訳による)全集となっている。氏が論考の中で挙げたものも、挙げなかったものも取り混ぜて、この壮観なる「断片」集成を読み進めてゆくのが、氏の論考に向き合うのに負けず劣らず楽しかった。何らかの思想を読み出すにはあまりに短い、片言隻語が延々と続く頁では退屈に陥ることもしばしばだったが、その一方で、ヘラクレイトスやデモクリトスの篤実かつ明晰な語り口や、薄氷の張った湖水の如きパルメニデスの詩句、読む者の胸を締め付けるような、熱情と切なさに満ちたエンペドクレスの詩句からは、片時も目を離すことができなかった。

 「断片」全集の部で惜しむらくは、思想家本人の言葉をそのまま伝える「真性断片」のみが収録されたため、タレスやピュタゴラス等、他者による思想内容の記録のみが現存する者が一律に省かれてしまったことだ。同書前半の論考部分には、そうした他者の筆になる「断片」を資料として用いた箇所も多かっただけに、せめて廣川氏自身が文中に挙げたものだけでも、附録のような形で改めて列挙してほしかったと思う。
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by nazohiko | 2013-01-14 23:57 | ◆論考を読む

ゲルマン人とオデュッセウス

 タキトゥスの『ゲルマーニア』によれば、ローマ帝国に服さないゲルマン人の居住地域に、流浪中のオデュッセウスが立ち寄ったという伝説が見られたという。もしこれが、(現地を旅したギリシア人やローマ人ではなく)ゲルマン人自身によって唱えられた伝説であるならば、なかなか面白い現象である。

 ギリシア・ローマ文学の主人公を、ゲルマン人の伝説に登場させたという点は、彼らが「軍事的・文明的に優位なローマ人の周縁で生きる我々」という世界認識を、冷静に受け入れたことを意味する。しかし、「(広い意味での)ローマ人の領分」から来訪した英雄として、敢えてオデュッセウスという人物を選んだ点に、彼らのしたたかさが現れているのだ。オデュッセウスは、ローマ人にとって文明面で兄貴分に当たるギリシア人である。また、ローマ人が始祖と仰ぐアエネアスは、トロイアの王家に連なる武将であり、即ちトロイア戦争でオデュッセウスに敵対した人物なのである。そう易々とはローマ人の風下に立たない、ゲルマン人の底意地。

 タキトゥスの筆に拠る限り、この伝説において、オデュッセウスが「ゲルマン人の始祖」や「ゲルマン人に文明を教えた英雄」であるとまでは語られなかったようだが、こうしたタイプの人物を始祖として位置づける言説は、必ずしも珍しくないのではないか。琉球王国の正史『中山世鑑』(1655)は、12世紀後半~13世紀前半に君臨したとされる舜天を、流刑に向かう途中で難船し、沖縄に漂着した源為朝の子であると記す。また近年では、ミャオ族(モン族)の内でも中国領に住むグループの間で、「中華民族」の始祖とされる黄帝に叛逆した蚩尤(しゆう)を、戦略的に「中華」の神話から取り入れ、自らの始祖として祭り上げる動きが見られるという。度重なるミャオ族(モン族)の激しい「叛乱」に、歴代の「中華」政権はずいぶん振り回されたもので、彼らの動向には、平時でも常に神経を尖らせてきたが、蚩尤を始祖として崇めるという消極的抵抗のパフォーマンスには、さすがに口の出しようがないだろう。
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by nazohiko | 2012-08-16 22:15 | ◆論考を読む

みうらじゅん・ニーチェ・儒教

  質問20 「みうらじゅん」を目指す若者に一言。

  みうら
   そんな人がいるのかどうかわからないですが、いたとしたら
   ボクには負けてしまうと思います。ボクも自分になることに
   精一杯です。

 『みうらじゅん大図鑑』(宣伝会議、2003)に収められた「みうらじゅんにきく50の質問」より。「自分になることに精一杯」だと述べるみうらじゅん氏は、「いかにして人は、そのあるところのものになるか」を問い、「お前があるところのものに、なれ」と呼びかけたニーチェに通じる点がある(出典はそれぞれ『この人を見よ』と『ツァラトゥストラはこう語った』であり、渡邊二郎編『ニーチェ・セレクション』〈平凡社ライブラリー、2005〉の訳文による)。昨今における「自分探しの旅」の流行と、方向性が真逆であることは断るまでもないだろう。

  質問10 友情って何よ? 俺、わかんないから教えてください。

  みうら
   「俺とお前って友情だよな!」って一生懸命言い合うことじゃ
   ないかなー、たぶん。

 みうら氏は『親孝行プレイ』(角川文庫、2007)の中で、親孝行を「プレイ」と心得れば、楽しく、照れずに行えることを説く。仮に偽善から始まっても構わない。心は後から付いてくるから……。このような捉え方は、「友情」に関するこの問答ともども、儒教思想が人間関係に要求する「礼」というものの在り方に、期せずして通じている。「行動に出さなければ相手に伝わらない(というお約束になっているところの)私のココロ」と「溢れるばかりのココロを伝える(というお約束になっているところの)定型化された幾つかの行動」の間に、切なくも冷徹に設定された「即かず離れず」の関係。逆に言えば、「礼」という言葉を「プレイ」に置き換えてみた時に、儒教という古代の智恵の一端が、ぐんと分かりやすくなるのだ。
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by nazohiko | 2012-08-16 00:24 | ◆論考を読む

夏休みのショーペンハウアーとニーチェ

 昨年の夏休みには、それまで敬して遠ざけていたショーペンハウアーの著作を集中的に読んだ。今年の夏休みには、中島裕介さん『もしニーチェが短歌を詠んだら』(角川学芸出版、2012年7月)がきっかけとなって、ニーチェの著作で今まで読まずにいたものに、次々と目を通している。

 ショーペンハウアーの思想に対しても、ニーチェの思想に対しても、私の賛同できる部分はそれぞれ少なくなく、なおかつ彼らの文体は、それぞれの意味で私にとって「口当たり」が良い。しかし、正にそうであるが故に、彼らの言葉は余りにスルスルと(例えば難解感も、違和感も、距離感も覚える暇がないまま)網膜に吸い込まれてゆき、ほとんど脊髄反射的というべき素早さで、我が身に共鳴の歓呼を挙げさせてしまうのだ。そこに、昨年も今年も危うさを感じて仕方がない。特に、彼らが「思索するということ」や「思索する人として、他者たちの中で生きるということ」について述べた言葉に目を通す時に、こうした傾向が強いようだ。正確に言えば、高校の頃に氷上英廣訳の『ツァラトゥストラはこう言った』(岩波文庫、1967)を一息に読んだ、ニーチェとのファースト・コンタクトの時点から、既にそのような感覚は芽生えていた。

 私のような者が一読しただけで中身を汲み尽くしてしまえるほど、そして無邪気に快哉を叫んでしまえるほど、彼らのメッセージが「豊かさ」と「歯応え」に欠けたものであるとは想像できない。今の私が、彼らの著作と「きちんと対話できる」だけの冷静さを備えているという自信はない一方で、私の裡に燃えさかるニーチェ像やショーペンハウアー像は、本人が見たら呆れるに違いないほど浅薄で一知半解なものであろう(我田引水というレヴェルにすら達しない)という、変な自信にならば事欠かない次第だが、はてさて、これからどうしたものやら???
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by nazohiko | 2012-08-15 01:17 | ◆論考を読む

『古典文学レトリック事典』

 『國文學―解釈と教材の研究』(學燈社)が、2009年で休刊となっていたことを知った。私は、定期刊行物としての『國文學』とは縁が薄かったけれども、「臨時増刊」と題してしばしば刊行された、所謂「読む事典」形式の企画物を好んで手に取ってきた。広い意味での『國文學』愛読者でありながら、『國文學』本体の休刊に気付かなかったのは、そうした理由に因る。

 我が最愛の1冊『古典文学レトリック事典』(國文學編集部編、1992)を入手してから、ちょうど20年を経たことになる。佐藤信夫氏の『レトリック感覚』『レトリック認識』(講談社学術文庫版は、どちらも1992年刊)のように、レトリックの1つ1つについて言語学的に分類・解説する本ではなく、日本の古典文学を彩った様々なレトリックを、ジャンルを超えて用いられたもの、詩歌に用いられたもの、物語に用いられたもの、演劇に用いられたものという風に分類した上で、日本古典文学における伝統的なレトリック名称によって、各々の項目を立ててある。民俗学的見地が取り入れられた古橋信孝氏の「序詞」や「枕詞」のように、読み物として手応えのある項目も散りばめられ、また和歌・俳諧や連歌・連句に多用された、先行するテクストとの間に成立するレトリックに関する、一連の項目も重要である。各項目に挙げられた用例が、項目の筆者たちの個性や好みをくっきりと反映しつつ、総体として一癖も二癖もある「古典文学のハイライト集」の姿を呈していることも、この本の魅力の1つだ。

 インターネットで検索してみたところ、現在この本は入手困難であるらしい。20年前の出版なのだから、『國文學』本体の休刊とは関係なく、疾うに完売してしまったのかもしれないが、残念なことである。
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by nazohiko | 2012-08-14 20:45 | ◆論考を読む