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カテゴリ:☆旧ブログより論考・批評等( 151 )

ふじわら の のりか

「平家の血を引く藤原紀香」という文言を、
最近のニュース記事に、よく見かけるのだが、
彼女は、どうして平家なのに藤原を名乗っているのか?

正解を言えば、
姓が「平」で、氏が「藤原」なのだ。
古代から明治時代の初期まで、姓と氏は異なる概念だった。
言い換えれば、姓と氏の両方を持つのが正式だったのである。

古代の血縁集団は、もともと姓だけを持っており、
天皇から与えられるという形式によって、
その使用権(独占的に使用する権利)を保証されていた。
蘇我・大伴・藤原・橘・源・平などが、これに当たる。

ちなみに、天皇は「姓を与える側」の役目にあり、
誰かに「姓を与えられる側」の立場になかったので、
皇族という血縁集団は、姓を持つことがなかったわけである。

やがて、藤原姓や源姓を初めとして、
ひとつの血縁集団が、いくつもの家系に分かれてゆくと、
居住地や世襲官職の違いに応じて、
それぞれのサブ・グループを識別するマークとして、
氏というものが、生じるようになった。

例えば、藤原という姓を持つ血族集団の中で、
摂政関白を世襲する家系は、九条氏を名乗り、
歌道を相伝するようになった家系は、六条氏を名乗り、
蹴鞠の専門家に特化した家系は、飛鳥井を名乗った。
これらは、世襲官職によって氏が分かれた例である。

居住地によって氏が分かれた例としては、
源姓の武家集団の中で、
下野国足利荘を領有したために、足利氏を名乗った者たちや、
上野国新田郡を根拠地としたため、新田氏を名乗った者たちを
挙げることができる。

氏は、あくまでサブ・グループの名称なのであり、
近衛氏のメンバーも、六条氏のメンバーも、
自分たちが藤原姓の一員であることを、忘れることがなかった。
同様に、足利氏のメンバーも、新田氏のメンバーも、
自分たちが源姓集団の一部分であることを、自覚していたのだ。
また、朝廷では依然として姓のみが使われ続けたから、
九条兼実は「藤原兼実」として関白に任命され、
足利尊氏は「源尊氏」として将軍に任命されたのである。

藤原や源や平は姓であり、九条や足利は氏である。
だから、「藤原氏」や「源氏」という呼び方は、
厳密に言えば、誤りであるということになる。
同じ理屈によって、
「平氏」は誤りだが、「平家」と呼ぶなら問題ないと言える。

藤原紀香が、本当に平姓集団の後裔だとすれば、
かつて「藤原」という名の土地に定住し、
その地名にちなんで、藤原氏を名乗ったサブ・グループなのだろう。

姓の後には「の」を付けるが、
氏の後には付けないのが、古来の慣習である。
「藤原鎌足」や「源頼朝」には、「の」が入るけれども、
「飛鳥井雅経」や「足利尊氏」には、「の」が入らない。

藤原紀香が、もし「藤原姓の紀香さん」であったならば、
その名前は「ふじわら の のりか」と読まれることになるが、
「平姓の中の藤原氏の紀香さん」であるというからには、
「ふじわら のりか」と読まれなくてはならない。
但し、古式ゆかしく「平紀香」と称する場合には、
「の」を入れて、「たいら の のりか」と読まれるのである。 # by nazohiko | 2007-02-21 00:34
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by nazohiko | 2007-02-21 00:34 | ☆旧ブログより論考・批評等

吉野秀雄の『寒蝉集』(4)

歌集『寒蝉集』に収められた441首のうち、
冒頭の一連「玉簾花」101首から
「仰寒天正述傷心」10首までの、合計151首が、
妻への挽歌と言える内容になっており、
ここまでで、歌集全篇の三分の一を占める。

その後は、伊豆や奈良への旅が歌われてゆくが、

●亡き者の手紙身につけ伊豆の国狩野(かの)の川辺の枯草に坐(を)り

●夜の汽車の暗き灯(ほ)かげにとりいでぬ亡妹(なきも)が書写の傘松道詠(かさまつだうえい)

等とあるように、
「死別の痛手を慰藉するための旅」という基調音が、
これらの旅行詠のところどころに姿を現す。

また、羅列される旅行詠の間を縫うようにして、
「吉野秀雄の『寒蝉集』(3)」で紹介した「病臥二旬」22首や、
妻の忌日を歌う「亡妻小祥忌前後」15首が置かれるのであり、
『寒蝉集』という歌集の、実にほとんどの部分が、
広い意味での「妻への挽歌」であると言うことができる。

以上に対して、
歌集末尾に配された母への挽歌「たらちねの母」は、
附録された「上州富岡にて納骨の折に」3首と、
「またおもひいでて」1首を加えても、
僅かに21首(歌集全体の二十分の一)を数えるのみ。

数が少ないこともさることながら、

●仏妻(ほとけづま)口がきけぬをうつたふる世にも悲しき夢見つるかも

等の作品に見られるように、
吉野において、亡き妻はどこまでも「妻」として認識され、
彼女が「仏」に昇華してゆく過程は、遅々として進まない。
それゆえに、彼女は常に「悲傷の対象」として歌われるのだが、

●蝋の灯(ひ)の五つの彩(あや)の暈(かさ)奇(くす)し死にませる母のその枕辺に
●息の緒(を)の絶ゆればすでにみ仏の母に唱ふる称名念仏

母の死に寄せられる感懐は、あっけないほど速やかに、
「死者が仏となる」の語りの中へ、回収されてしまうのである。

また、吉野の母は浄土真宗の信徒であったというが、

●在りし日の母が勤行(つとめ)の正信偈(しやうしんげ)わが耳底(みみぞこ)に一生(ひとよ)ひびかむ

まるでダメ押しのような、この歌を以て、
母への挽歌は締め括られ、同時に『寒蝉集』の結びとなるのである。

妻への挽歌と、母への挽歌。
どうして、これほどまでに違いを生じたのだろうか。

※続く

# by nazohiko | 2007-02-17 16:38
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by nazohiko | 2007-02-17 16:38 | ☆旧ブログより論考・批評等

柿の葉寿司

熟鮨(なれずし)、押鮨(おしずし)、握鮨(にぎりずし)の内で、
私は、押鮨が飛び抜けて好きである。
木型に入れて押し固めるのが一般的なので、箱鮨とも呼ばれる。

具や酢飯が高密度に詰まっているのが、食感上の特徴だが、
あらかじめ酢ベースの調味液に漬けたり(鯖や鱒など)、
甘辛く煮たり(穴子など)した具を使うことが多いのも、
忘れてはいけない、味覚上の特徴である。
つまり、醤油を付けずに食べても物足りなくない。
酢飯を二段構造にして、干瓢などの薄い層を挟むこともある。

押鮨の面白さは、全国各地に個性的な伝統鮨があることで、
少なくとも外形的には、握鮨よりも遥かにヴァリエーションがある。
私の中で「ベスト・オヴ・押鮨」の座を保ち続けているのは、
桜で有名な吉野(奈良県)から、和歌山県の北部にかけて、
一続きの山林地帯で作られてきた「柿の葉寿司」である。
海から遠い地方でありながら、押鮨が盛んに作られてきたのだ。

山里まで運ばれてきた塩鯖を、酢飯と一緒に柿の葉で包む。
山林地帯なのだから、柿の葉ならば幾らでも手に入る。
包み終わったものを木枠に入れて、一晩から三晩ほど押し固めると、
直方体の姿をした「柿の葉寿司」が出来上がるのである。
柿の葉に含まれる殺菌効果を利用しながら、軽く熟成させるので、
熟鮨(和歌山県は熟鮨の名産地でもある)の性格も帯びている。
柿の葉に包んだまま売られるので、芳香だけでなく保存性も良い。

近年では、鮭や鯛や鯵を使った「柿の葉寿司」も見かけるが、
食感も風味も淡白な鯛は、具材として決定的にミス・チョイスだ。
柿の葉の発する香りに、まるで拮抗できないのである。
やはり鯖が永遠の古典であって、鮭がそれに次ぐといったところ。

「柿の葉寿司」は、寿司屋で食べるものではなく、
大きな鮨問屋が売っているものを、テイクアウトする。
奈良の「平宗」と「いざさ(中谷本舗)」が、大手として知られるが、
東京には「いざさ」の支店しかなく、「平宗」の鮨が食べられない。
幾らか当世風にアレンジされた「いざさ」の鮨よりも、
武骨な味わいが頼もしい「平宗」に、私は軍配を上げるのだ……。

「平宗」のホームページによると、全国どこでも配送できるそうだが、
食べたいと思い立った時に、手に入らないのではつまらない。
既にお気付きかもしれないが、私は筋金入りのワガママなのである。# by nazohiko | 2007-02-13 00:17
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by nazohiko | 2007-02-13 00:17 | ☆旧ブログより論考・批評等

続・東京交響楽団演奏会 寸感

一昨日の東京交響楽団演奏会で、
チェンバロの調律を担当した人のブログを見つけた。
http://umeokagakki.cocolog-nifty.com/blog/

チェンバロの音がオーケストラに負けないように、
「秘密兵器」を使ったと書かれているけれども、
小型のスピーカーをチェンバロの下に置いて、
音量を増強していたことなら、とっくに気が付いていた。

ブログを読んで、初めて知ったのは、
いわゆる「モダン・チェンバロ」を使わずに、
伝統的なチェンバロを、オーケストラと共演させたので、
そのような措置を取ることにしたという話である。

チェンバロを聴き慣れていないので、
モダン・チェンバロと伝統的なチェンバロを、
音色によって判別することが、私にはできない。
近代的なオーケストラの演奏会なのだから、
ゲストの独奏楽器も、モダン・チェンバロなのだろうと、
勝手に思い込みながら、客席から眺めていたのである。

もしモダン・チェンバロを使っていたら、
スピーカー抜きでも、オーケストラに対抗できたのだろうか?
作曲者のプーランクは、
チェンバロがどれくらいの音量を発するものと想定して、
この協奏曲「田園のコンセール」を書き綴ったのだろうか?
作曲の時期は1927-28年、初演は1929年である。

ブログによると、終演後に、
「当時のモダン・チェンバロは音量が豊かだった?」
「当時のオーケストラは編成が小さかった?」
「チェンバロを初めて見たプーランクが、訳も判らず作曲した?」
といった議論が、スタッフの間に起こったそうである。

私の推測を言えば、
プーランクの周りにあったチェンバロは、
モダン型であったか、伝統的な型であったかに関わらず、
オーケストラに拮抗できるほどの音量は、なかったのだろう。

「田園のコンセール」は、協奏曲という形式でありながら、
チェンバロ独奏とオーケストラの音が、あまり重ならない。
極端に言えば、両者が交代で演奏するような曲になっている。
独奏楽器が大音量を出せないことを前提にして、
プーランクは、このように作曲せざるを得なかったのではないか。
それでも、チェンバロが掻き消されてしまう部分は多かったのだが。

プーランク当時のモダン・チェンバロが、
近年に製造されたモダン・チェンバロよりも、
更に大音量だったとは、ちょっと考えづらいことだし。# by nazohiko | 2007-02-12 12:41
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by nazohiko | 2007-02-12 12:41 | ☆旧ブログより論考・批評等

東京交響楽団演奏会 寸感

◆ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」
◆フォーレ「パヴァーヌ」
◆デュカ「魔法使いの弟子」
◆プーランク「田園のコンセール」
 (チェンバロ独奏 曽根麻矢子)
◆ビゼー「アルルの女」第2組曲

◇ドビュッシー「小組曲」より「小舟にて」

 指揮 秋山和慶

 2月10日午後6時
 東京オペラシティ内コンサートホール

20世紀の作品でありながら、チェンバロが入るという
「田園のコンセール」を聴いてみたくて、足を運んだのだが、
最初の曲目「牧神の午後への前奏曲」が鳴り始めるや、
渋味を効かせたフルートの独奏に、耳を奪われた。

その段階で気が付いたのだが、
今回のプログラムは、「フルートが映える曲」特集でもあったのだ。
果たして、アンコールの「小舟にて」に至るまで、
至るところに登場する、フルートの独奏が、
千変万化の表情で、音楽を牽引していったのである。

楽団のメンバー表によると、
フルートの首席奏者は、「甲藤さち」さんというらしい。
高音域では、幾分「無難な演奏」に堕してしまった一方で、
中低音での表現力に、とりわけ優れていたと思う。
フルート界の名メゾ・ソプラノといったところだろうか。

チェンバロ協奏曲は、総じて期待外れに終わった。
音量が豊かでなく、強弱のメリハリも付けにくい楽器であるため、
オーケストラの響きに、簡単に埋もれてしまうのである。
バロック時代のチェンバロ協奏曲とは違って、
金管楽器や打楽器を多用するオーケストラ編成であったから、
チェンバロが引き立たないのは、なおさらのことだ。

とはいえ、チェンバロの低音域に
独特の存在感があることを知ったのは、今回の収穫であった。
作曲者プーランクも、そのことを十分に心得ていたらしく、
他の楽器が、ほとんど沈黙してしまった中を、
チェンバロの下降アルペジオで、曲を終えるという、
協奏曲としては例外的なエンディングが、用意されていた。# by nazohiko | 2007-02-11 12:21
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by nazohiko | 2007-02-11 12:21 | ☆旧ブログより論考・批評等

謎太郎の日記(7)

で、『プリンキピア』にあたってみますと、
いろいろ変なことが書いてある。
そこで感ずることは、
私たちはきちっとした形のものを習うけれど、
それを創り出した人というのは、
非常にいろんなことを気にしておったということです。


以上は、湯川秀樹の講演録より。
『プリンキピア(Principia)』は、ニュートンの著書である。

自身も「創り出す人」の一員であった湯川は、
脳裡に渦を巻く「非常にいろんなこと」を、
「きちっとした形のもの」に整理して、発信することの難しさを、
いやというほど思い知っていたはずだ。

そんな湯川の発言なのである。
ニュートンが「非常にいろんなことを気にしておった」ことへの讃嘆だけでなく、
それを「きちっとした形のもの」にしてみせようと苦心した、
ニュートン自身や、後続の物理学者たちに対する畏敬をも、
この言葉の奥底に、読み取ることが可能ではないだろうか。

# by nazohiko | 2007-02-08 21:27
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by nazohiko | 2007-02-08 21:27 | ☆旧ブログより論考・批評等

紙幣で折り紙

『おとなのおりがみ』(アル中Masa著、山と渓谷社刊)という本を、
八重洲ブックセンター1階レジ脇の、新刊コーナーで見つけた。

少しずつブームになってきた、紙幣を使った折り紙である。
紙幣に描かれた肖像や模様を、うまく活かすのがポイントだ。
上記の本の著者とは、違う人の作品だけれど、
「ターバン野口」を、御覧になったことはないだろうか。

【旧ブログには画像あり】

興奮しながら、本を手に取ってみたが、
面白い作品を紹介することよりも、
作り方を解説することに重点が置かれていた。
つまり、作品のカラー写真が少なく、
作り方の図解が、延々と続いてゆくのである。
自分でも作ってみたいという読者には、重宝な情報であろうが、
私も含めて、大多数の者が期待するのは、
痛快な作品を、次から次と見せてくれるような本ではないか。
作り方を知りたいという欲求は、その後に生じてくるものだ。

そういうわけで、買わずに帰ったのだが、
店員さんが本を見ながら作ったと思われる、
紙幣による折り紙の数々が、本のそばに陳列されていたのが、
とても私の気に行った。
これは、なかなかの見物なので、
八重洲にお立ち寄りの際には、足を運ばれることをお勧めする。

この日、私が購入したのは、
『だまされる視覚―錯視の楽しみ方』(北岡明佳著、化学同人刊)。

以前に、ここでも紹介したことのある、
錯視の研究を専門とする知覚心理学者の著作であり、
錯覚を催す図版がたっぷり入っているのが、何はさておき楽しい。
著者のホームページにも、いろいろ掲載されているので、
ぜひ覗いてみていただきたい。
http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/

# by nazohiko | 2007-02-07 00:28
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by nazohiko | 2007-02-07 00:28 | ☆旧ブログより論考・批評等

吉野秀雄の『寒蝉集』(3)

そんな『寒蝉集』の白眉は、
妻の病逝の前後を描いた、歌集冒頭の「玉簾花」101首や、
同じく序盤に置かれた挽歌「彼岸」13首ではなく、
しばらく旅行詠が続いた後、歌集のちょうど真中に現れる
「病臥二旬」20首(末尾に「紅梅」2首を附す)であると思う。

●吾妹子(わぎもこ)が位牌の前に血しほ吐き事態をなげくゆとりだもなし
●血をはきし病の床(とこ)に腕伸べて柱をたたく何のなぐさぞ
●関東地区空爆の夜なり痰壺を闇につかみて血を吐くわれは
●大挙夜襲を告ぐるラヂオの一点の燈(あかり)みつめて病めば苦しゑ
●夜襲爆撃のあやしき闇にたまきはるいのち潜めて血ははき吐きつ
●折からの庭の菜の花雪柳瓶(かめ)に盈(み)てしめて血を吐きくらす

芝居臭さと紙一重のハイ・テンションで始まった一連は、

●枕より一人静(ひとりしづか)の鉢みれば春深むまで病みこやりけり
●薬のむ毎に吸呑(すひのみ)の水かけてひとりしづかの鉢をつちかふ

これら2首から成る、つかの間の緩徐楽章をブリッジとして、

●病牀(やみどこ)に香りをおくる沈丁花植ゑにし妹(いも)のまたかへらめや

と、歌集を統べる「妻との死別」の主題と合流してゆく。
(万葉語の「妹」が妻を指すことは、注記するまでもなかろう)
その途端に、この一連は最大音量に到達するのだ。

●仏妻(ほとけづま)口がきけぬをうつたふる世にも悲しき夢見つるかも

これより後の6首は、蛇足と言い切ってしまっても悔いはない。

とはいえ、そういう印象は、
あくまでインパクトの度合についての話であって、
附録の「紅梅」2首を含めたラスト3首は、
一連の結びとして、十分に存在意義を備えている。

●枕辺の春も逝くべく花すもも緋の毛氈(まうせん)に散りかかるなり

 (以下「紅梅」)

●紅梅をふたたび君の給(た)びしかば紅梅の瓶(かめ)に紅梅を挿す
●わが壁の多胡(たご)のいしぶみの墨摺(すみず)りにかなひて映えつ紅梅の枝

結核の悪化による吐血の色として、
一連の前半に、あれほど横溢していた赤色が、
「赤は血の色」というイメージを、最後まで引きずりつつも、
ここに至って、花弁や毛氈という
「春っぽい物」の色へ転化させられてゆく。

なおかつ、とりわけ「紅梅」2首においては、
紅梅という赤いもの(どうしても血を連想させるもの)が、
「紅梅の瓶に紅梅を挿す」や
「いしぶみの墨摺りにかなひて映えつ」のように詠まれることで、
病者の心身が、秩序を回復しつつある様を暗示するのである。
一連の前半では、悲愴な登場の仕方をしていた「瓶」が、
喜ばしい器として再登場してきたことも、注目に値するだろう。

【旧ブログには画像あり】

画像は、群馬県に現存する「多胡碑」の拓本。
これが、「多胡のいしぶみの墨摺り」である。
奈良時代の初期に、多胡郡の設置を記念して建てられた。

※続く

# by nazohiko | 2007-02-03 00:53
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by nazohiko | 2007-02-03 00:53 | ☆旧ブログより論考・批評等

吉野秀雄の『寒蝉集』(2)

私の裡にたゆたう、曖昧だが豊麗な吉野秀雄像に、
幾つかの無造作な言葉を、当てはめようとすることによって、
味気なく矮小化してしまう愚行を、あえて犯すならば、
例えば「ナルシシズムすれすれのロマンティシズム」が、
この歌集に収められた数々の挽歌に、吹き込まれており、
それが読者に、陶酔的な昂揚をもたらすのである。
挽歌というジャンルの性格上、
マゾヒスティックの要素を、幾らか帯びた陶酔なのだが。

一首一首における、修辞の技巧や、
歌集全体の構成といった、様々のレヴェルまで含めて、
吉野秀雄を「挽歌のエンターテイナー」と呼んでも、冒涜になるまい。
挽歌をエンターテインメントの域に堕落させたり、
すり替えたりしたという意味ではなくて、
一級の挽歌でありつつ、一級のエンタメでもあるような作品が、
『寒蝉集』には、満ち満ちているのである。
そんな挽歌を実現できた歌人は、
近代の歌人では、他に「死にたまふ母」の斎藤茂吉くらいだろうか。

※続く

# by nazohiko | 2007-02-01 00:51
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by nazohiko | 2007-02-01 00:51 | ☆旧ブログより論考・批評等

吉野秀雄の『寒蝉集』(1)

会津八一に関する小連載「さすらふ学人の歌」が、
しばらく止まったままになっているけれど、
会津八一の歌集や随筆に、とりあえず目を通し終わった今は、
彼の弟子だった吉野秀雄の作品を、年代順に読み進めている。

私家版を含めれば第三歌集になる『寒蝉集』(1947)を、
ほんの先程、クリアしたところだ。
私にとっては、たぶん三度目の通読になる。

戦争末期の大変な時に、妻が夭折するし、
吉野自身も、結核をこじらせて吐血を繰り返すし、
やっと戦争が終わったと思ったら、
今度は母が逝ってしまうし……。
そんな二年間に詠まれた、四百首あまりを一冊に収めてある。

凄惨悲痛の代表選手のような歌集でありながら、
読んでいるうちに、白けてしまうこともなければ、
再起不能になるほどのトラウマを、刻みつけられることもない。
むしろ、二度でも三度でも手に取って、
玩味熟読したくなってしまうから、この歌集は稀有なのだ。
それは、所謂「怖いもの見たさ」という感情ではない。

  いつだつて吉野秀雄は泣きがほの一歩手前のやゝ非対称

※続く

# by nazohiko | 2007-01-31 00:17
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by nazohiko | 2007-01-31 00:17 | ☆旧ブログより論考・批評等