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カテゴリ:☆旧ブログより論考・批評等( 151 )

鉄幹の靴

五人づれ著『五足の靴』を読み終わった。
与謝野鉄幹・北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里が、
九州を旅して、紀行文をリレー執筆したものである。

徳山や京都に立ち寄りながら、
東京へ戻ってゆく過程を描いた幾篇には、
鉄幹の執筆であるらしいものが、続け様に現れる。
彼は、徳山で教職に就いていたことがあるが、
その夜景を「十四五年ぶりに眺めた」と述べるなど、
五人の中で、鉄幹でなくては発し得ない言葉が、
これらの篇には、姿を見せているのだ。

鉄幹が書いたらしい文章の一つ「月光」は、
徳山滞在記の第二篇に当たるが、
現地の風物や他のメンバーの様子は、ほとんど描かれない。
前半は、海辺で居眠った時に見た夢の記述であり、
後半は、宗教や宗教家というものに関する議論となっている。

鉄幹は、浄土真宗の僧侶の子として生まれたのだが、
「余の如き者には到底他力門での安心立命の出来難かった」ことを、
この文章の筆者は、告白する。
「他力門」という、本来は仏教用語であるものの中に、
浄土真宗だけでなく基督教を数え入れているのが、まず面白い。

浄土真宗の思想と、プロテスタントの思想の間に、
類似性や共通性を指摘する論は、
その妥当性はともかくも、今でこそ珍しくなくなっている。
しかし、1907年(ちょうど百年前)という段階で、
専門の宗教学者ではない者が、このように発言したというのは、
なかなかの独創性だと言えないだろうか。

面白さの第二は、
この文章では、「智識と感情」というキーワードで、
自身と宗教家たちの間に、線を引こうとするのだが、
「筆者=智識の人」vs「宗教家=感情の人」のように、
排反的な対立図式で、ありがちに片付けてしまわないこと。

そうではなくて、この文章の筆者は、
宗教家の「感情的な人柄」に敬意を表明しながらも、
自身を「智識と感情との併せて均等に発達した人柄」であると定義して、
故に、宗教家は自分を満足させるに足りないのだと説く。
「感情的な人柄」が、宗教家に劣らず発達していると自負するあたり、
「六分の侠気 四分の熱」を謳った鉄幹の面目躍如といったところ。

# by nazohiko | 2007-06-08 00:03
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by nazohiko | 2007-06-08 00:03 | ☆旧ブログより論考・批評等

ミューズの神を率いるアポロ

風邪の治りかけで、いつもと体調が違うせいか、
ストラヴィンスキーの「ミューズの神を率いるアポロ」を、
無性に聴きたくなってきて、
普段なら曲名すら思い出しもしない、そのCDを引っ張り出した。

絃楽合奏のために作曲された、半時間ほどのバレエ音楽である。
演奏は、マルケヴィッチの指揮するロンドン交響楽団。
5年ほど前に買い求めたが、何も感じるもののないまま、
とりあえず最後まで聴いて、それでおしまいにしていたのだが……。

表面的には、如何にも「そっけない」音楽でありながら、
その体幹に、何と豊かな「うたごころ」を蔵していたことか!

声楽的と表現してもよいような、旋律線や旋律的断片が、
曲の随所に見え隠れすることだけを言うのではない。
リズムや和声が刻々と動いてゆく様子まで含めて、
私の非音楽的な語彙力を以てしては、
「うたごころ」という渾然とした一言でしか、表せないものが、
この曲に満ち満ちていることに、初めて気付いたのだった。

風邪が治りきったら、忘れてしまう感覚なのかもしれないけど。

  硝子屑硝子に還る火の中に一しづくストラヴィンスキーの血  (塚本邦雄)

# by nazohiko | 2007-06-05 00:26
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by nazohiko | 2007-06-05 00:26 | ☆旧ブログより論考・批評等

続・蔵書印というもの

西泠印社の印泥については、
葛原妙子の歌集『朱霊』に、ちょっと出てくるのを思い出した。
西「冷」印社ではなくて、西「泠」印社というのが正しい名前なのだが、
そのことに気付いている人は、かなり少ない。
「冷」と「泠」を異体字だと思っている人もあるが、実は文字そのものが違う。

さて、印泥の主要成分である硫化第二水銀(辰砂)は、
そのままでは、人体に吸収されにくい物質であるため、
日常的な捺印に使うくらいなら、毒性を心配するに及ばない(はず)。
しかし、これを加熱すると水銀が分離して、
気化した水銀(水銀蒸気)が、空気中を漂ってしまう。
水銀蒸気は、肺から吸収されやすく毒性が高いので、
故に、印泥を火中に投じてはならない。

そこで、ふと思い至ったのだが、
印泥として硫化第二水銀を日常使用する国々では、
「左義長(とんど)」と称して、書画を焼却する行事が行われたり、
「敬字亭」と称して、書画を焚くための炉が設けられたりしてきた。

表向きには、文字に呪力が宿っているという民間信仰によるもので、
呪力を持ったものであるゆえに、
特別な時間や場所でなければ、処分できないという論理である。
だが、それだけだろうか。

書にせよ絵画にせよ、落款印が捺されることが多いし、
絵画作品であれば、絵の具としても硫化第二水銀を用いる。
こうした部分を火にくべることによって、
水銀蒸気が流出してしまうことを避ける、経験的な知恵としても、
みだりに書画を焼くことを、禁じてきたのではないか。

一枚の書画が含有するくらいの量の硫化第二水銀から、
どれくらいの水銀蒸気が出てくることになるのか、
私には分からないので、大きなことは言えないのだが。# by nazohiko | 2007-06-02 20:27
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by nazohiko | 2007-06-02 20:27 | ☆旧ブログより論考・批評等

蔵書印というもの

すっかり読み終わった本でなければ、蔵書印を捺さない。
単に「最後のページまで目を通した」というだけでなく、
今後しばらくは、その本を広げなくてよいと思えるほどに、
充実感のある付き合いが成り立った本でなければ、
ここでいう「すっかり読み終わった」には当てはまらない。

中国杭州の西泠印社(せいれいいんしゃ)で作っている、
「美麗」という濃色の印泥を、私は愛用している。
硫化第二水銀(辰砂)を油と練り合わせた、本式の印泥なので、
捺印してから2週間くらいは、吸取紙で押さえておかないと、
印泥が紙面に定着せず、お向かいのページに色が移ってしまう。
そんな不便があるので、
「今後2週間は手を触れられずともよい」と思い切れる本しか、
読了直後に蔵書印を捺すわけにゆかないのである。

硫化第二水銀は、硫黄と水銀の化合物であって、
このように書くと、恐ろしげに見えてしまうかもしれないが、
水俣病の原因となった有機水銀の類とは違って、
人体に吸収されにくい物質(水やアルコールに難溶)なので、
印肉として使う程度なら、毒性を心配するに及ばない(はず)。

読後の昂奮が冷めやらぬ、愛すべき書物から、
二週間にわたって隔離されているうちに、
自分がその本から得た知識や感興が、
初めのうちは、脳内でくるくると一人歩きするようになり、
いつのまにやら、次々と休眠してゆく。

読み終わった本に蔵書印を捺し、吸取紙をあてがい、
重しをかけて二週間ほど放置するという行為は、
それまで自分に付き合ってくれた本に、
勲章と休暇を与える行為であると同時に、
その本が、自分の脳内に注入していった諸々を、
いったん休眠させ、あるいは忘却の域にまで至らせるため、
その本を再びめくりたくてもめくれない状態に、
わざと自分を追い込むという行為でもあるのだ。

休眠や忘却と言っても、
電源を切られたメモリが、白紙状態に戻ってしまうような、
徒労感に満ちた休眠や忘却ではない。
いったん意識の水面から姿を消した後になって、
本が与えてくれた知識や感興は、真に利用可能なものとなる。

歌を詠むという営みに即して言うなら、
天衣無縫の印象を読者にもたらすような「本歌取り」は、
作者の脳内で、そのような段階に至った歌が、
自らを「本歌」として献身した場合に、
往々にして実現するのだろうと想像するところだ。# by nazohiko | 2007-06-02 01:02
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by nazohiko | 2007-06-02 01:02 | ☆旧ブログより論考・批評等

「五人づれ」って誰だと思う?

岩波文庫の新刊コーナーに
五人づれ著『五足の靴』なる一冊を見つけて、
「なんのこっちゃ?」と、手に取ってみる。
本文の始まるあたりに目を走らせるや、
「おお、これか!」と破顔一笑して、直ちに買い求めた。

明治四十年(一九〇七年)の夏休み、
若き与謝野鉄幹・北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里が、
長崎・平戸・島原・天草などを、一ヶ月かけて遊歩した。
白秋の故郷である柳川にも、もちろん皆で立ち寄った。
彼らは旅を続けながら、「五足の靴」と題して、
紀行文を「東京二六新聞」にリレー連載したのだった。

「明星派」や「パンの会」の文人たちに関する、幾つかの本を通して、
伝説的なメンバーによる九州旅行のことや、
彼らが紀行文を連載したことは、話に聞いていたけれども、
その「五足の靴」を実見したのは、今回が初めてである。

どの回を誰が執筆したのか、ほとんど明らかでないらしく、
これまでに単行本化されたことがなく、
アンソロジーなどに収録される機会も乏しかったのは、
そこがネックになっていたからなのかもしれない。

岩波文庫の巻末解説によると、
同社の『白秋全集』に、附録として収められているそうだし、
後になって分かったことには、
『明治文学全集』の「明治紀行文学集」にも入っている。
『白秋全集』にも『明治文学全集』にも、
私は、そこそこ親しんできたつもりだが、
メジャーな巻の収録作品ではないので、
「五足の靴」とは、あいにくニアミスに終わってしまった。

誰が執筆したのか、大半の回について不明だというのが、
なるほど、無理もないことだなと思わせるほどに、
どの回も、紀行文としての目の付けどころや文体が、
互いに、かなりの程度まで似通っている。
いずれの文章もレヴェルが高く、かつ快く読めてしまうので、
そのことが、気になりにくいのだけれど、
いざ気にしてみると、なかなか不気味な現象ではある。

巻末解説によれば、
白秋の実家訪問記は、平野万里の筆によると推定され、
また木下杢太郎は、自分の書いたうちの二篇を明らかにしている。

そうと指摘されてみれば、これらの回には、
「確かに万里っぽいかな、杢太郎っぽいかな」という感触がある。
そして、その感触を手掛かりにしながら読み進めてみると、
「これは万里かもしれない、これは杢太郎かもしれない」と、
おぼろげながら筆者の見えてくる回に、
ぽつぽつと出会うことになるのだが……。
大見得を切る自信がないので、詳しい話は避けておく (^^)ゞ

# by nazohiko | 2007-05-29 00:22
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by nazohiko | 2007-05-29 00:22 | ☆旧ブログより論考・批評等

タイムマシン

もしも、人類の歴史をちょこっと書き替えて、
自分の好きな文学作品を、どれか一つだけ、
自分で執筆したことにしてしまう権限を与えられたなら、
私は、ゲーテの『ファウスト』を選ぶだろう。

とはいえ、ファウストという主人公に感情移入したり、
ファウストが辿ったような生涯を、
自分も経験したいと願ったりすることは、あまりない。
それとこれとは、別の話なのである。

感情移入ということで言えば、
古今東西の文学作品で、私が最も感情移入する登場人物は、
トルストイの『戦争と平和』に出てくる、ピエール・ベズーホフ。

かといって、もし私がタイムマシンを与えられたとしても、
『戦争と平和』の原稿を、トルストイの書斎から失敬して、
自分の名前で発表してしまおうとは、たぶん思うまい。
それとこれとは、やっぱり別の話なのだな。

# by nazohiko | 2007-05-26 15:24
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by nazohiko | 2007-05-26 15:24 | ☆旧ブログより論考・批評等

音楽の日本座敷

  もし日本座敷を一つの墨絵に喩へるなら、
  障子は墨色の最も淡い部分であり、
  床の間は最も濃い部分である。

谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』の中で、このように書いた。
外光を身に沁み込ませて、白々と透き通った障子紙ですら、
あくまで「陰」や「翳」の領分の中で、最も明度が高いものであるに過ぎず、
ひとり「明」や「陽」の世界に属して、「陰」や「翳」と対立するわけではないというのだ。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番ハ長調、通称「ヴァルトシュタイン」を、
往年の名匠、クラウディオ・アラウが弾くのを聴いて、
谷崎が、日本座敷について述べた言葉を思い出した。

  映像ファイルA 第1楽章(途中まで)
    http://www.youtube.com/watch?v=ztIT9RLuhD4
  映像ファイルB 第1楽章(承前)、第2楽章(全部)、第3楽章(途中まで)
    http://www.youtube.com/watch?v=nMaKH9dVkBs
  映像ファイルC 第3楽章(承前)
    http://www.youtube.com/watch?v=1qW2z5xd9yM

やや濁り気味の和音が律動する低音域(主に左手が受け持つ)と、
くっきりとした軌跡で動きまわる高音域(主に右手が受け持つ)による、
いわば「ひとり二重奏」が、この曲の面白さの一つである。
古典派の音楽としては型破りな、和声進行や転調も目立つ。

低音域と高音域の性格的対照や、聴き手の不意を衝く転調ぶりを、
思いっきり前面に押し出してみせるのが、この曲の一般的な演奏スタイルになるだろう。
ところがアラウは、この曲を「一つの墨絵」として響かせたのだ。

アラウの演奏する「ヴァルトシュタイン」は、
低音域が醸し出す「濃い墨色」を、音楽の確固たる基調として、
高音域の光彩を、あくまで「墨色の最も淡い部分」として扱う。
転調によってもたらされる、音楽の流れの変化についても同様であり、
「陰」や「翳」の領分におけるグラデーションの妙として、
楽曲のすべてが表現されると言っても、過言ではない程だ。

「墨色のグラデーション」としての低音域と高音域については、
例えば、第1楽章の第1テーマ(映像ファイルAの0:43から)を、
同じく「墨色のグラデーション」として表現された転調については、
引き続き、同じ楽章の第2テーマ(1:43から、ホ長調に転じて開始)を、
聴いていただければ、その一端をお分かりになるだろう。

このような演奏スタイルが、最も本領を発揮するのは、
第1楽章の「展開部」(映像ファイルAの6:00から)や、
第3楽章の「終結部」(映像ファイルCの5:32から)のように、
既に出てきた旋律や音型が、音域や調性を目まぐるしく替えながら、
繰り返して奏でられる場面である。

或る時は、「墨色の濃淡」の距離が大きめのグラデーション、
或る時は、「墨色の濃淡」の距離が小さめのグラデーション、
或る時は、「墨色の淡い部分」に偏ったグラデーション、
或る時は、「墨色の濃い部分」に偏ったグラデーションといった風に、
「陰」と「翳」が支配する「音楽の日本座敷」を、
伸縮自在・軽重自在のタッチで、余す所なく描き出してくれるのだ。

谷崎は、日本座敷に身を置いた時の心持を、

  そこの空気だけがシーンと沈み切つてゐるような、
  永劫不変の閑寂がその暗がりを領してゐるような感銘を受ける。

と、表現した。
アラウの演奏する「ヴァルトシュタイン」に触れて、私が受けた感銘も、
結果として、谷崎の場合とほとんど同じである。

# by nazohiko | 2007-05-19 18:07
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by nazohiko | 2007-05-19 18:07 | ☆旧ブログより論考・批評等

空に消えてった 打ち上げ花火

夜中まで机に向かうことを、余儀なくされている時、
格好のお伴は、Youtubeである。

ふと頭の隅から転がり出てきた、
懐かしい音楽や、テレビ番組の名前を打ち込んで、
検索ボタンを押すのだ。

今晩は「夏祭り」という小曲を求めて、
検索ボタンを押してみた。

ジッタリン・ジンというバンドが、
1990年に自作自演したのが、オリジナル版。
http://www.youtube.com/watch?v=dvmAfEohNag

ちょうど10年後の2000年に、
Whiteberryという、少女だけのバンドが蘇演した。
http://www.youtube.com/watch?v=2ew2k1WMt9o

両方を聴き比べてみるに、一長一短といったところ。
オリジナル版は、楽器編成と編曲が貧弱であって、
特に、単調な間奏が長々と続くのには閉口する。

Whiteberryによるリメイク版は、
伴奏部分が豊かになったことは、歓迎できるけれども、
今度は、伴奏にいろいろな要素を詰め込みすぎて、
この歌の純朴さを、損ねてしまったようでもある。

歌声については、どちらの版にも好感が持てる。
オリジナル版は、女性歌手の凜とした独唱。
リメイク版は、やや人工味を帯びた「甘ったれ声」で歌われ、
時に応じて、バンドのメンバーによる合唱になる。
ずいぶん性格が違う声音や、歌い口ではあるが、
「夏祭り」という楽曲の解釈として、
どちらにも、聴き手を納得させるものがあるのだ。

リメイク版は、
最後の言葉「空に消えてった 打ち上げ花火」を、
もう一度ゆっくりと歌って、曲を締め括るが、
これは、英断だったと思う。 # by nazohiko | 2007-05-14 01:46 |
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by nazohiko | 2007-05-14 01:36 | ☆旧ブログより論考・批評等

実朝の春

源実朝の『金塊和歌集』を、初めて通読したのは、
古書店で求めた、今にも崩れそうな岩波文庫版だった。

その文庫本が、復刊されているのを見つけたので、
買い直して、久しぶりに読み返してみた。

とりあえず「春部」まで目を通して、気付いたこと。

実朝の和歌世界において、春という季節は、
あからさまに過ぎるほどに、
「然るべき文化」とでも呼ぶべきものの比喩となっている。
"culture"の訳語へと、重心を移してしまった、
近代的な意味での「文化」というよりも、
「王者や聖人が、文を以て民を教化する」という、
「文化」のもともとの字義に、幾らか近い意味において。

そして、「然るべき文化」とは、
実朝自身が代表する、鎌倉武士の文化ではなく、
天皇が代表する、古き王朝文化に他ならなかった。
なおかつ、それは決して過去のものではなく、
京都の宮廷や吉野の山奥に、今なお息づいているものであり、
未来永劫にわたって、決して揺らいだり色褪せたりしないことを、
実朝は、心から信じ込んでいた。
或いは、無理矢理にでも信じ込もうとしていた。

「然るべき文化」から、地理的にも社会的にも、
遠く離れて暮らすことを、余儀なくされていた彼は、
まるで孤独に耐えかねたかのように、
都の方角からやってくる春を渇望する歌や、宮廷や吉野の春を想像する歌を、
繰り返し、繰り返し、書き記すのである。

# by nazohiko | 2007-05-12 00:12
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by nazohiko | 2007-05-12 00:12 | ☆旧ブログより論考・批評等

アリゴーニ氏に猛省を促す一方で……

モーツァルトの交響曲全集が、CD10枚組で1700円!

かつてスタンダールが指摘したように、
モーツァルトの音楽には、
厳しさと激しさに裏打ちされたものが、実は多くて、
特に交響曲は、本気で聴くと結構疲労させられる。

のんびりと聴き流すため「だけ」の全集があれば、
1つは持っておきたいものだと、かねがね待望していた。
良い意味で「あくまでB級」なCDを……。

アレッサンドロ・アリゴーニ指揮、
イタリア・フィルハーモニー・オーケストラ。
まるで聞いたことのない名前だが、
「イタリア人の演奏するモーツァルト」への曖昧な期待から、
合計46の曲目から成る、この全集を買い求めた。

正規に販売されているCDとしては、廉価すぎることや、
ホルン奏者を、他の曲よりも多く要するためだろうか、
「交響曲第32番」が収録されていないことが、
演奏水準を予想する上で、不安材料になったが、
いざ聴いてみると……。

彼らの演奏スタイルは、
典型的な「20世紀の室内管絃楽団によるモーツァルト」で、
今となっては苦笑を禁じ得ないところもあるが、
聴き流すための演奏としては、
むしろこれくらい「楽天的な時代遅れ」な方がありがたい。
チェロとコントラバスが、
元気いっぱいに存在感を示すのも、耳に快い。

しかし、である。
何と安心して聴けない合奏ぶりであることか。
フルート同士、ホルン同士で作られる和音は汚く、
これでは和音というより、ほとんどホワイトノイズである。
高音絃楽器も問題であって、
縦方向にも横方向にもブレが目立ちすぎる。
木管楽器の場合と同じように、和音が耳障りだし、
八分音符で伴奏を刻む時には、リズムの流れが怪しくなる。

そもそも、「全集」と銘打ったCDを出すというのは、
演奏家にとって、一世一代の大事であるはずだ。
こんなお粗末な演奏を、
「全集」の名のもとに、売り出してよいのだろうか。
アリゴーニ氏には、猛省を促したくなった一方で、
「お手軽に聴けるモーツァルト交響曲全集」という
矛盾的な代物を求めていた、私自身にも、
反省が求められるべきであろうことに気付いた。

とりあえず最初の1枚を聴き終えて、
私は、ベーム盤やホグウッド盤を聴いた後とは別の意味で、
ずいぶんと疲れてしまったのだが、
モーツァルトの交響曲を聴いて、どのみち疲れるのなら、
しっかりした名演を、しっかり聴き込んで疲れたい……というのが、
今回の結論である。

「しっかりした名演」という言葉には、
「演奏技術の堅実な演奏」という意味と、
「芸術的表現力に優れた演奏」という意味を、共に込めてある。
ある程度まで、技術水準の高い演奏であれば、
「聴き手を疲れさせる音楽」としての、
モーツァルトの交響曲の薬効成分は、
おのずから立ち上がってくるだろうという、
希望的観測に立脚して、
あえて「名演」の一語で括った次第である。

# by nazohiko | 2007-05-09 00:31
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by nazohiko | 2007-05-09 00:31 | ☆旧ブログより論考・批評等