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ホラティウス『詩論』の本領

ホラティウスの『詩論(Ars Poetica)』を、
アリストテレスの『詩学(Peri Poietikes)』に比べて
浅薄だとか、卑小だとか評する人たちがいる。

アリストテレスの著作は、
「詩(の本質)とは何か、何であるべきか」を主題としたものであり、
即ち、そこでは "what?" の問いが中心となっている。

ホラティウスの著作は、
「詩とは、どのようなコミュニケーション方式であるか、
 コミュニケーションのツールとして、詩はどのように発信されるべきか」
を主題としたものであり、そこで中心を占めるのは "how?" の問いである。

アリストテレスが、ホラティウスに遥かに先立って、
「筋」「模倣」「統一」などの概念に、発展や深化を施しておいたにも関わらず、
ホラティウスは、それらの言葉を「アリストテレス以前の水準」で用いた等々と、
ホラティウスの著作に、アリストテレスからの「退行」さえ見出そうとする人も、
なかなか後を絶たないようだが……。

もとより同じ軸の上に乗っていないホラティウスの著作に、
アリストテレスという先行研究に対する「進歩」を求めても、無意味なことである。

もうちょっと厳しいことを言っておくと、
アリストテレスが在来の言葉を、独自の定義の下で用いたという歴史上の出来事を、
個々の概念にとっての「発展」や「深化」であったと、無検証のまま認めた上で、
ホラティウスに「退行」のレッテルを貼ろうとする人がいるなら、
そうした人は、二重の意味でお話にならない。

  ※もしかして、もしかすると、アリストテレスの著作こそ、
  ※詩について語ることの歴史(敢えて「系譜」とは呼ばない)の中で、
  ※最も壮大で、最も絢爛たる袋小路なのかもしれない……のだ。

閑話休題。
岩波文庫版に入っている『詩学』『詩論』の合冊で、岡道男氏の訳者解説は、
アリストテレスの著作を「哲学的立場から詩作をとらえている」とし、
ホラティウスの著作を「弁論術に通じる立場から詩作をとらえている」とする。

それはそれで、十分に理のある解釈だと思うが、
私の場合は、岡氏とは異なる視角から、
ホラティウスの所論は、平安時代~鎌倉時代の貴族社会における
和歌のありかたに、期せずして通じる所があるようにピンと来た。

気ままな思い付きの翼を、更に広げてみるならば、
ホラティウスが『詩論』と題する著作を通じて、究極のテーマとしたものは、
詩がコミュニケーションの一手段となるような、何らかの社会的集団の内部で、
ひとりの雅男(みやびを)として生きるための「道」だったのではないか?
逆に言えば、そんな「雅男の道」を指南するためのケースワークとして、
ホラティウスは、詩をめぐる "how" の問いを追いかけてみせたのではないか?

私がここで、わざわざ「雅男」という古語を選んでみたのは、
ホラティウスの著作に語られる(と、私が見受けた所の)「雅男の道」が、
詩のありかたに関する、具体的な認識内容まで引っくるめて、
京のみやこの貴族歌人たちと響き合っているなあ……という印象を、
こういう形でも、表現してみたかったからである。

最後にもう一言。
ヴァーツヤーヤナの『カーマ・スートラ(Kama Sutra)』も、その本質は、
一人前のナーガラカ(nagaraka、「粋人」や「洗練された市民」と訳される)が
身に付けるべき「道」を教えることにあると、私は解釈している。

そうだ、ホラティウスの『詩論』をアリストテレスの『詩学』と比べるよりも、
いっそのこと『カーマ・スートラ』と比較する方が、よほど実のある議論になるだろう!


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by nazohiko | 2016-11-05 18:34 | ◆論考を読む
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