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東本願寺

 京都駅から四条烏丸で歩く道すがら、たまに東本願寺に足を止めることがある。東本願寺は、浄土真宗の中核的寺院の1つであり、大谷派にとっては本山の地位にあるのだけれども、これほどまでに「聖地」らしさを伴わない大寺院というのは、そうそうお目にかかるものではないだろう。

 そこが世界の中心であるかのような感覚も、そこに異界が顔を覗かせているような印象も、東本願寺には潔いほどに欠落している。私がこの空間において覚えるのは、「聖地」に身を置いた人間が感じるとされる緊張感や、陶酔感や、或いは自己が変革されるという感触ではない。如何なる宗教の信徒でもない者が、語弊を恐れずに言わせてもらうならば、東本願寺の本質は「世界で最も気品のある休憩所(の1つ)」であることではないか。

 昨日の昼も、広大で涼やかな御影堂にしばらく暑さを避けたのだが、畳に足を投げ出してボーッとしている若者や、子供たちを連れて参拝に来た母親や、車座になって雑談する老人たちを、ゆっくりと眺めているうちに、それまでにも漠然と胸裡に胚胎していた上記の考えが、ついに言葉という形を取った。

 もしかすると親鸞の後学たちは、この寺院が「聖地」の紫雲に巻かれてしまうことを、また「極楽浄土」の劣化コピーとして威光を放ってしまうことを、敢えて拒否してきたのではないか? その代わりに、和やかな休息時間を「一切衆生」に与えると共に、思い思いの姿で憩う人間たちの姿を、そこへやって来た者たち自身に見つめさせるための、あくまで現世の一部としての「休憩所」を期して、あの巨大な仏堂を建造したのではないか?

 そもそも、私が親鸞の思想を斟酌する限り、寺院が「極楽浄土」を疑似体験するためのテーマパークであってはいけないのだ。なおかつ、絢爛たる「極楽浄土」が究極的な憧憬対象であってもいけない。『無量寿経』にはっきりと定義されているように、輪廻転生を繰り返した末に、真の解脱に至る直前の段階まで漕ぎつけた人が、最後の一生を過ごすために迎え入れられる「通過ポイント」が、阿弥陀如来が統率する「極楽浄土」なのである。
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by nazohiko | 2013-05-13 21:47 | ◇見聞を誌す
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