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蔵書印というもの

すっかり読み終わった本でなければ、蔵書印を捺さない。
単に「最後のページまで目を通した」というだけでなく、
今後しばらくは、その本を広げなくてよいと思えるほどに、
充実感のある付き合いが成り立った本でなければ、
ここでいう「すっかり読み終わった」には当てはまらない。

中国杭州の西泠印社(せいれいいんしゃ)で作っている、
「美麗」という濃色の印泥を、私は愛用している。
硫化第二水銀(辰砂)を油と練り合わせた、本式の印泥なので、
捺印してから2週間くらいは、吸取紙で押さえておかないと、
印泥が紙面に定着せず、お向かいのページに色が移ってしまう。
そんな不便があるので、
「今後2週間は手を触れられずともよい」と思い切れる本しか、
読了直後に蔵書印を捺すわけにゆかないのである。

硫化第二水銀は、硫黄と水銀の化合物であって、
このように書くと、恐ろしげに見えてしまうかもしれないが、
水俣病の原因となった有機水銀の類とは違って、
人体に吸収されにくい物質(水やアルコールに難溶)なので、
印肉として使う程度なら、毒性を心配するに及ばない(はず)。

読後の昂奮が冷めやらぬ、愛すべき書物から、
二週間にわたって隔離されているうちに、
自分がその本から得た知識や感興が、
初めのうちは、脳内でくるくると一人歩きするようになり、
いつのまにやら、次々と休眠してゆく。

読み終わった本に蔵書印を捺し、吸取紙をあてがい、
重しをかけて二週間ほど放置するという行為は、
それまで自分に付き合ってくれた本に、
勲章と休暇を与える行為であると同時に、
その本が、自分の脳内に注入していった諸々を、
いったん休眠させ、あるいは忘却の域にまで至らせるため、
その本を再びめくりたくてもめくれない状態に、
わざと自分を追い込むという行為でもあるのだ。

休眠や忘却と言っても、
電源を切られたメモリが、白紙状態に戻ってしまうような、
徒労感に満ちた休眠や忘却ではない。
いったん意識の水面から姿を消した後になって、
本が与えてくれた知識や感興は、真に利用可能なものとなる。

歌を詠むという営みに即して言うなら、
天衣無縫の印象を読者にもたらすような「本歌取り」は、
作者の脳内で、そのような段階に至った歌が、
自らを「本歌」として献身した場合に、
往々にして実現するのだろうと想像するところだ。# by nazohiko | 2007-06-02 01:02
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by nazohiko | 2007-06-02 01:02 | ☆旧ブログより論考・批評等
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