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「アマデウス」戯曲と映画

映画「アマデウス」の原作となった
同名の戯曲に言及したついでに、
両者の異同について、ちょっとお話ししたい。

戯曲「アマデウス」は、
英国のピーター・シェーファーによって書かれたもので、
1979年にロンドンで初演された後、
ニューヨークでの再演にあたって、改訂版が作られた。
私が知るのは、専ら改訂版の内容である。

宮廷作曲家サリエリの陰謀に翻弄され続け、
心身ともども崩壊寸前となったモーツァルトを、
黒装束に仮面を付けたサリエリ自身が訪れ、
いわば「最後の一撃」として、
レクイエムの作曲を依頼する段階までは、
原作の戯曲と、ミロス・フォアマン監督による映画の間で、
筋書の進行について、目立つほどの違いは存在しない。

はっきりと差が出てくるのは、
大詰めに近い、モーツァルトの命が尽きる場面である。
原作では、サリエリが再度「仮面の男」として訪ねてきて、
レクイエムを早く完成するよう、鞭打つ如く催促する。
するとモーツァルトは、手を伸ばして仮面を剥ぎ取り、
「やはり、あなたでしたね」と、サリエリに語りかけるのだった。

映画の方では、サリエリは素顔のままで、
見舞客を装って、モーツァルトの家に忍び込んでくる。
モーツァルトは、目の前に立っているサリエリが、
自分の命を狙い続けてきた者だとは、ついに気付くことなく、
病み衰えた自分に代わって、譜面を書いてくれるよう、
口述筆記の役を、サリエリに懇願するのである。

こうした異同は、単に筋書を左右するに止まらない。
劇作家シェーファーと、映画監督フォアマンが、
「アマデウス」という物語に、それぞれ如何なる主題を託したか。
その違いが、モーツァルトの最期に立ち会うサリエリの姿を通して、
最も端的に浮かび上がってくるのである。

再び原作に戻ると、
仮面を剥がれたサリエリは、狼狽することもなく、
「死んでくれ、モーツァルト!」と、敵意を露わにするが、
その矛先は、いつのまにかモーツァルトを通り越して、
造物主であるキリスト教の神に向けられてゆく。

「音楽によって神を讃える」という志を、少年時代から持ち続け、
性的な純潔さえ、進んで自らに課してきたサリエリ。
しかし神は、そんなサリエリに微笑まなかったばかりか、
よりによって、あんなに下品で自堕落なモーツァルトに、
輝くばかりの才能を、惜しみなく与えたのだ……!
神や天才(神に愛された者=AMA-DEUS)の超倫理性について、
原作の戯曲は、サリエリの悲憤という形で問いかけるのである。

映画でのサリエリは、
モーツァルトに急かされるままに、口述筆記を引き受け、
秘密のヴェールに包まれていた、モーツァルトの創作過程を、
初めて目の当たりにすることになる。
そして、次々と紡ぎ出されてゆくレクイエムの響きに、
敵情視察という本来の目的も忘れ、感動に打ち震えてしまう。

この場面では、
モーツァルトを不倶戴天の敵と見なしながら、
モーツァルト作品の真価を理解できた、
唯一の同時代人として、サリエリが描かれる。
そんなサリエリの、二重の意味で孤独な立ち位置こそが、
即ち、映画「アマデウス」の主眼として扱われるのである。
「才能から疎外された者」としての孤独感が、
サリエリの中で、モーツァルトへの敵意に繋がっただけでなく、
「モーツァルト作品への畏敬」という一種の連帯感が、
群衆に対する敵意を生じて、彼に一層の孤独を味わわせたわけだ。

いや、もっと正確に言えば、
これら二つの主題は、戯曲と映画の両方に、
多かれ少なかれ、現れてくるものなのだが、
「どちらに重点を置くか」という分かれ道において、
戯曲と映画は、それぞれの針路を選んだのである。# by nazohiko | 2007-01-11 22:41
by nazohiko | 2007-01-11 22:41 | ☆旧ブログより論考・批評等
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