『坊っちゃん』は小学生の頃に読んだきりだったが、
坊っちゃんが物理学校を出てすぐに、
「四国辺の中学校」に赴任した時の月給が、40円であり、
2ヶ月足らずで教職を擲って東京に戻り、
「街鉄」の技手になった時の月給が、25円だったという数字は、
なんとなく記憶の中に残っていた。
『坊っちゃん』の発表から100年のうちに、
激しく値上がりしたものもあれば、
それほどでもなかったものもあるから、
物価の変遷を、一枚板に捉えることはできないが、
教師時代の坊っちゃんの給与が、高かったことは分かる。
物価の高かったはずの東京で、
清と二人で住めるほどの家を借りても、
街鉄から毎月もらう25円で、まかなえたようだから。
かつて司馬遼太郎は
『街道をゆく(37) 本郷界隈』(朝日新聞社)の中で、
夏目漱石の出身校である東京帝国大学を、
西洋文明を受容して、日本全国に配分する「配電盤」に喩えた。
漱石や坊っちゃんのような、
東京で高等教育を受けた人材を呼び込むために、
地方に赴任する教師には、高額の報酬が用意されていたのだろうか。
ちなみに、上には上があるもので、
帝大を卒業した漱石が(赤シャツ教頭と同じ学歴)
松山中学校に赴任した時の月給は、80円だったという。
坊っちゃんの倍額だったことにも驚くが、
なんとこれは、校長の月給(60円)をも上回っていたのである。
# by nazohiko | 2006-11-21 13:27 | 論考・批評 |