by 謎彦 by なぞひこ
by Nazohiko


音楽と言葉

先週の日曜に買ってきた
カルロス・クライバーの指揮する
モーツァルトの交響曲について、
賛否こもごも、誰かに話したくて、
もう7日間も、うずうずしているのだが、
いざ語り始めようとすると、
的を射た言葉が
まるで見つからないことに気付いて、
隔靴掻痒の感に苦しむばかりだ。

でも、あえてそのままにしておく方がいい。

近似値のような言葉を
無理矢理にでも捻り出し、
いくつも並べ立てることによって、
苦し紛れのコミュニケーションを試みることは、
必ずしも不可能ではないし、
それはそれで
全く意味のない行為でもないと思う。

しかし、言葉が持っている吸着力は、
なかなか手ごわいもので、
楽曲や演奏について、
言葉という媒体に頼った説明を、
ひとたび強行しようものなら、
その時に使った、有限個の的外れな語彙に、
本来自分が抱いていた
もっと不定形で、もっと豊饒な感銘が、
本人の気付かないうちに
回収され、幽閉されてしまいがちなのだ。

言い換えれば、
自分がもともとから
そのように貧しくて的外れな感銘しか
抱いていなかったように、
錯覚させられてしまう。
そんな力が、言葉には備わっているようだ。

私は、かつて書評を執筆するという行為について、
以下のように述懐したことがある。

>とはいえ、いざ言語で表現してみると、脳裡にたゆたってい
>た時には、あれほど豊かに伸び広がっていたはずの思考や情
>動が、似ても似付かないほどに枝葉を刈り込まれ、矮小で生
>彩のない姿を呈してしまうというのも、多々ある現象だ。大
>抵の場合は、そんな姿に落胆しているうちに、もともとの樹
>影や図面をきれいさっぱり忘れてしまうものだから、いよい
>よ始末が悪い。

>備忘や推敲のための文章を試みて、却っていろいろなディテ
>ールを失ってしまうよりも、いっそ原始的な豊かさを保った
>まま、忘れてゆくに任せた方が幸せなのかもしれない……言
>語によって頭脳からアウトプットするという作業をめぐって
>は、そんな極言さえ許されなくはないだろう。心ニ浮カブヨ
>シナシ事を、強壮に育ててくれるのも言語なら、卑小にまと
>めてしまうのも言語。それは諸刃の剣なのである。

況わんや、
音楽について語ろうとする場合についてをや。

言葉が不可避的に作り出す
貧しい「うそ」に押しのけられて、
自分の脳裡にたゆたっていた
豊饒な「まこと」を忘れてしまうという問題だけを、
当時は意識していたわけだが、
言葉が本当に厄介であるのは、
むしろ「うそから出たまこと」を
生み出してしまう点、
つまり「うそ」を「まこと」だと錯覚させてしまう点に
あると言うべきなのだろう。

だから、音楽や文芸の批評などという行為に、
うかつに手を出してはいけないのだ。
とはいえ、とはいえ、
優れた楽曲や演奏や文芸作品に触れると、
私はいつも、
誰かに感銘を話したくて、うずうずしてしまう。
それらは、私の大脳の、
言葉に関わる幾つかの部分を、
この上なく甘美に刺激してしまうのである。# by nazohiko | 2006-11-19 23:31
[PR]
by nazohiko | 2006-11-19 23:31 | ☆旧ブログより論考・批評等
<< 坊っちゃん あなたならどうする? >>