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こんなベートーヴェン
"The Unheard Beethoven"というウェブサイトがある。
名前の通り、ベートーヴェンの珍しい作品や、 未完成に終わった楽曲を、MIDIの形で聴かせてくれる所だ。 http://www.unheardbeethoven.org/ その中に、交響曲第3番「英雄」の草稿がある。 http://www.unheardbeethoven.org/midis/drft55-1.mid ほとんど伴奏もないまま進んでゆく、4つの断片だけれど、 ベートーヴェンがどんなことを考えていたかは、わりと分かる。 30代半ばのベートーヴェンによって、1804年に完成され、 同年輩のナポレオンに献呈されるはずだった、この交響曲。 私たちの親しんでいる現行版では、 まず初めに、オーケストラ全員が、 変ホ長調の主和音を、「ジャン、ジャン」と二度打ち鳴らす。 ところが、今に残る1803年の草稿では、 そこの「ジャン、ジャン」が、なんと甲高い属七和音だったのだ。 引き続いて第一のメロディーが出てくるところからは、 現行版に似ていると言えば、似ているのだけれども、 草稿の音楽は現行版に比べて、 いまひとつ安定しない和声の流れの中で、 同じような音型を粘着的に繰り返しながら、もぞもぞと前進してゆく。 そしてその結果として、 ひとつの気分が確立したと言えるまで、現行版よりも手間がかかるし、 次の気分に切り替わってゆく過程も、目が覚めるほどに鮮やかではない。 もしもベートーヴェンが、そのまま作曲を続けていたら、 これはこれで、魅力的な交響曲になっただろうと思う。 属七和音による「ジャン、ジャン」のチョイワルオヤジぶりまで含めて、 生身のベートーヴェンや、生身のナポレオンの姿に、 現行版よりも、むしろずっと肉薄しているような気がするのだ。 逆に言えば、 現行の第3交響曲は「薄情」或いは「非人情」な響きがするという、 今まで薄々と抱き続けてきた印象を、 草稿に触れることによって、 私は思い出し、そして確信するようになった。 だが、しかし。 ベートーヴェンが、この交響曲を組み立ててゆく中で、 最終的に必要であると悟ったものこそ、 他でもない「非人情」の音楽性ではなかったのか。 地平線の彼方まで、一点の翳りも許さぬ如くに、 延々と照射され続ける、変ホ長調の和音。 それでいて、 音楽がいったん転進を決意した時の、呆れるほどの変わり身のすばやさ。 そんな輝かしい「非人情」の世界でなければ、 自分が心に描く「英雄」は、住めないと判断したのではないだろうか。 ベートーヴェンが、実在のナポレオンの肖像でもあり、 ナポレオンを信奉する作曲者自身の肖像でもあった、書きかけの楽譜を、 もはや如何なる生身の人間にも似ていない、 もはや如何なる生身の人間をも寄せ付けない、 「非人情」な音楽巨篇に化けさせるに及んだ、その瞬間に、 彼の「英雄」交響曲は、誕生の時を迎えたと言えるのかもしれない。 私は、このように思い至ることで、 現行版に対する長年の違和感を、 昂奮気味の納得へと昇華することができた次第である。 言い換えれば、 「人情」や「人間臭さ」を、あえて切り捨ててしまうことによって、 せいぜい「ナポレオン」交響曲でしかなかった草稿は、 押しも押されもせぬ「英雄」交響曲として脱皮したのだ。 仮にこの「英雄」交響曲を、「超人」交響曲と呼び替えてみても、 ベートーヴェンからお叱りを受けることはあるまい……。 モーツァルトの音楽は「天使の歌声」であり、 ベートーヴェンの音楽は「人間の叫び」であるとか何とか、 従来まことしやかに語られてきたけれども、 そのような二分法の再考を、改めて促してくれるような経験を、 交響曲第3番の草稿は、私にもたらしてくれた。 もうちょっと正確に言えば、 その草稿の「人間の叫び」性は、 「英雄」と名付けられた現行の第3交響曲が、 実に「非人情」な名曲であることを、私に確信させてくれたのである。 # by nazohiko | 2006-11-11 00:11
by nazohiko
| 2006-11-11 00:11
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