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さすらう学人の歌(4)

ちょっと脱線。

小林秀雄が「モオツァルト」の中で、
こんなことを書いている。

  美と呼ばうが思想と呼ばうが、要するに優れた芸術作品が表現す
  る一種言ひ難い或るものは、その作品固有の様式と離すことが出
  来ない。これも亦凡そ芸術を語るものの常識であり、あらゆる芸
  術に通ずる原理だとさへ言へるのだが、この原理が、現代に於い
  て、どの様な危険に曝されてゐるかに注意する人も意外に少い。

白状するに、私には意味の取れない部分もある評論なのだが、
この一節の言わんとすることは、はっきり分かるし、
はっきり分かった上で、賛意を表すことができる。

「あらゆる芸術に通ずる原理」だというからには、
会津八一の短歌についても、その原理は及ぶべきなのであって、
つまり、会津短歌を語るにあたっては、

  1 短歌であること
  2 文語を用いていること
  3 多くは平仮名だけで記されていること

これらの「固有の様式と離すことが出来ない」わけである。
単語ごとに分かち書きされた歌や、
発表後にそのように改められた歌については、
それも「固有の様式」の第4として数えなければならない。

言い換えれば、

  1' 散文として(韻律を無視して)読めばつまらなくなる
  2' 口語に直してみればつまらなくなる
  3' 漢字を交えてみればつまらなくなる
  4' 一字空けを詰めてみればつまらなくなる

以上の理由をあげつらって、
「故に、会津短歌はつまらないものだ」と断じようとしても、
このような基準は、もとより通用しないのである。

仮に「全くつまらない内容」しか盛り込まれていない歌であっても、
その「つまらない内容」に、会津の手によって、
平仮名表記の文語短歌という表現媒体が与えられた結果、
一個の短歌作品として、どれほどまで立ち上がってきたのか。
古都の風物を多く詠んだ会津にちなんで、仏像の比喩を弄するなら、
一個の短歌作品として、どれほどの後光が指すようになったのか。
作品の成功と不成功を評するための、それが唯一の基準となるのだ。

つまり、「後光に目を眩まされるな」というのではない。
むしろ、「後光になんか騙されるな」という
今どきの原理主義的テロリストを思わせる声にこそ、
私たちは、騙されてしまってはいけないのである。

さて、加藤治郎さんの「岡井マジック」という言葉を模して、
ここで「会津マジック」という新語を披露させていただくなら、
「作品固有の様式」が、一つの「会津マジック」を生み出した例として、
晩年の歌集『寒燈集』(1947年、66歳)から、この歌を挙げてみたい。

  ひとのよにひとなきごとくたかぶれるまづしきわれをまもりこしかも

終戦直前に早逝した、養女きい子(紀伊子)を悼む「山鳩」21首より。
「ひとのよにひとなきごとくたかぶれる」というのは、
漢字の四字熟語で言えば「傍若無人」であり、
世の中が、無数の人間たち(とりわけ俗物ども)で
溢れかえっているというイメージが、
そのアグレッシヴな語感を支える前提となっている。
傍らに人がいない「かのように」振る舞うことができるのは、
実際には、傍らに人がうようよしているからに他ならない。

ところが、なのだ。
「ひとのよにひとなきごとくたかぶれる」と平仮名で綴られてみると、
不思議なことに、そんな感じがしなくなってしまうような気がする。
私が、この上句から想起するヴィジョンは、
むしろ人っ子いない、どこまでも無色透明に広がる空間に、
ただ一人ぽっかりと浮かんだ老年の男が、
敵の姿も、味方の姿も見えない四方八方にうろたえながら、
それでも必死に、涙声を上げて「たかぶれる」有様である。

つまり、あえて平仮名だけで表記することによって、
漢字を交えた場合に比べて、
歌の方向性にまで変化をもたらしたというのが、
私が、この歌に見出そうとする「会津マジック」なのである。

そして、「まづしきわれをまもりこしかも」と、
同じく平仮名だけで描き出された、きい子の献身は、
上句とは一転して、バスタオルで包み込まれるように柔らかい。
これは、もはや言わずもがな。

※続く

# by nazohiko | 2006-11-06 00:45
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by nazohiko | 2006-11-06 00:45 | ☆旧ブログより論考・批評等
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