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フルヘッヘンド!

杉田玄白が晩年に著した回想録『蘭学事始』に、
オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』(通称)を和訳して、
『解体新書』を成した時のエピソードが出てくる。

  鼻のところにて、
  フルヘッヘンドせしものなりとあるに至りしに、
  この語わからず。
  これは如何なることにてあるべきと考へ合ひしに、
  如何ともせんやうなし。

オランダ語もろくに分からないまま、
翻訳に乗り出してしまった玄白たちにとって、
頼りになるものは、長崎で入手したという小さな辞書ばかり。

  フルヘッヘンドの釈註に、
  木の枝を断ち去れば、その跡フルヘッヘンドをなし、
  また庭を掃除すれば、
  その塵土聚まりフルヘッヘンドすといふやうに
  読み出だせり。

  これは如何なる意味なるべしと、
  また例の如くこじつけ考へ合ふに、
  弁へかねたり。

ずいぶん回りくどい辞書もあったものだが、
フルヘッヘンド、フルヘッヘンドと呟いているうちに、
かの有名な一瞬が訪れた。

  時に、翁(玄白の自称)思ふに、
  木の枝を断りたる跡
  癒ゆれば堆(うづたか)くなり、
  また掃除して塵土聚まれば、これも堆くなるなり。

  鼻は面中に在りて堆起せるものなれば、
  フルヘッヘンドは堆(うづたかし)といふことなるべし。

  然ればこの語は
  「堆(うづたかし)」と訳しては如何といひければ、
  各々これを聞きて、
  甚だ尤もなり、堆と訳さば正当すべしと決定せり。

  その時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、
  連城の玉をも得し心地せり。
  かくの如きことにて推して訳語を定めり。

以上の話を忘れがたいものにしている、最大の功労者は、
訳語を得て童子のように喜ぶ、玄白の姿でもなければ、
彼が手にしていた、へんてこなオランダ語辞典でもない。
「フルヘッヘンド」という言葉の、むずがゆい響きこそが、
この場面において、絶妙のムードメーカーを務めているのだ。

そして、もう一つ注意するべきは、
そんなにも刻苦勉励して、ようやく訳出できたという内容が、
「鼻は顔から突き出るような形をしている」という、
今さら西洋人に教えてもらうまでもない事柄であったこと (^^;)

ところが、である。
『ターヘル・アナトミア』の、鼻に関する記述には、
「フルヘッヘンド」の語が、なんと見当たらないのだという。
鼻ではなく、乳房についての文章になら、
「フルヘッヘンド」が出てくるのだそうだ。

なぜ乳房が、鼻にすり替わってしまったのかについて、
いろいろと学説や珍説が出されているようだが、
なにはともあれ、
茶筅髷を結った医学者たちが、自分の鼻を撫でまわしながら、
「フルヘッヘンド」の語義について想像を巡らせる姿は、
何にも代えがたいほど魅力的ではないか。

それにしても、「フルヘッヘンド」はどのように綴るのだろう。
ご存知の方に、ぜひ教えを乞いたい。

  ターヘル・アナトミア訳してゐて「愛」の一語に皆でぽやーんとする
                            (題詠マラソン2003より)

# by nazohiko | 2006-11-05 00:47
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by nazohiko | 2006-11-05 00:47 | ☆旧ブログより論考・批評等
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