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再び紀野恵のこと(4)

塚本邦雄が「前期紀野恵」を評した言葉のうち、

  警戒すべきは、稀用古語を頻用することと、そのための古典臭とも
  言うべき癖であろう。

という前半部分は、
一瞬の違和感が通り過ぎた後に、たやすく納得できた。
稀用な古語を「駆使」することと、「頻用」することの、
厳然たる違いを自覚するよう、戒めているのであって、
塚本自身の作風を否定するものでないことは、言うまでもない。

私にとって難問となったのは、後半の部分である。

  古典によって開かれた目は、現実を鋭く直視できよう。

自分の理解する限りにおいての塚本邦雄と、
この論調を、どのように整合させればよいのか。

『日本人霊歌』や『魔王』のように、戦乱の時代を見つめた歌集、
『薄明母音』のように、母堂への挽歌から成る歌集、
また『感幻楽』のように、
塚本のいう「稀用古語」の利用が、特に顕著な歌集を、
私は、いろいろと思い浮かべてみた。

総体的な印象という次元においてであれば、
なるほど、これらの歌集は、
上記の命題と、必ずしも正面衝突しないように感じられなくはない。
しかし、塚本の歌業における
「古典によって開かれた目」と、
「現実を鋭く直視」する能力や意欲の関係について、
明らかな言葉で定式化してみせることが、
どうしてもできそうになかったのである。

そこで、発想を逆の方向に転じてみた。
古典によって「目を開かれる」ことが一向になく、
悪い意味での「稀用古語の頻用」や「古典臭」ばかりが、
際限なく昂じてしまったような歌人がいたとしたら、
塚本は、この場でどのような苦言を呈しただろうか。

それはきっと、

  この歌人は古典によって目を開き得なかったのみならず、却って自
  身の持ち味すら直視できなくなってしまった。

というものであったに違いない。
そして、この「自身の持ち味を直視できない」というキーワードに
思い当たった刹那、
私がこれまでうまく言い表せずにいた
『架空荘園』(1995)以後の紀野恵に対する不満足感が、
忽ちにして、言葉の結晶化を始めたのだった。

10月11日の小文「謎太郎の日記(5)」に書いたように、
他人の作品やパフォーマンスを批評することは、
自分をこっそり懺悔することでもある。
私が「中期紀野恵」を批判する言葉を見つけたということは、
即ち、私自身に対して薄々と感じていた
同じような行き詰まりの危険性について、
警鐘を鳴らしてくれる言葉を得たことをも意味する。

※続く

# by nazohiko | 2006-10-14 00:48
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by nazohiko | 2006-10-14 00:48 | ☆旧ブログより論考・批評等
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