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再び紀野恵のこと(1)

先週金曜の日記に、紀野恵の短歌を採り上げたが、初めて紀野の作品に出会ったのは、大学1年生の頃、講談社学術文庫の『現代の短歌』(高野公彦編)を読み進めていた時だった。総勢105名に及ぶ歌人の代表作を集めたアンソロジー本である。

  年代記に死ぬるほどの恋ひとつありその周辺はわづか明るし

この歌に始まる上田三四二の項目は、分厚いアンソロジー本の中程にあって、まさに「わづか明るく」灯明が点るようだったが、全105名の104番目に登場した紀野恵も、忘れられない異彩を放ちながら、目に飛び込んできた。生年順に並べられたアンソロジーなのだが、最後から2番目という絶妙のタイミングが、紀野の出番に華を添えるようでもあった。

以下、ひとつひとつ例歌を挙げてゆくのは、長文に過ぎてしまうので避けておくが、紀野の短歌を「新古今調」や「新古典派」のレッテルで片付けてしまうことには、私は反対である。紀野の作風として

 ●ふっくらとした語感に、切なげな余韻が籠もる
 ●艶やかなヴィジョンが呈示されるが、それは儚げでもある
 ●けろっとした言葉遣いの奥から、不安や感傷が染み出てくる

などを思い付くことができるが、これらは必ずしも『新古今和歌集』や、その他いくつかの古典からの影響には帰せられないと、私には見受けられるのだ。

「必ずしも」という留保の言葉を使うのは、第1に、紀野と私それぞれの眼に映った『新古今』が、全く同じものではあり得ない故に、私の基準で「紀野の短歌における『新古今』の影響」を測っても無意味だからである。第2に、歴史には"if"が無用だからであり、つまり「もし紀野が『新古今』を読まないまま歌人になったら、どんな短歌を作っていたか?」という対照実験は、技術的にも人道的にも不可能なことだ。

さて、私にはむしろ「紀野恵」という一塊の歌才、或いは一塊の感情が、『新古今』などの古典に含まれる語彙やモティーフを、紀野自身の欲する文脈の上で軽々と支配する有様こそが、紀野短歌の魅力であり、本質でもあるように思われるのである。あたかも源実朝の作品が、深く読めば「新古今調」でも「万葉調」でもないのと同じように。実朝の和歌たちは、コーヒーゼリーに喩えると分かりやすいが、それらに備わった苦さ・甘さ・黒さ(暗さではなくて)・透明さ・震えやすさは、師の藤原定家にも『万葉集』にも回収不能なものだ。実朝和歌に通底する、奇妙に晴れやかな「喪失の予感」についても然り。少なくとも、私の把握する限りの定家作品や万葉歌とは、ジャストフィットしないのである。

※続く

# by nazohiko | 2006-10-10 15:17
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by nazohiko | 2006-10-10 15:17 | ☆旧ブログより論考・批評等
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