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レクイエム K.626(4)

 モーツァルトは「レクイエム」の随所に、癒しをもたらすような楽句や音色を織り込んだし、歌詞の求めるところに応じて、「悲しみの仕事」の図式にも通じるような楽曲設計を与えた。補筆完成を引き受けたジュースマイヤーも、第13楽章までは、師匠のそうした路線を守り通したが、にも関わらず最後の第14楽章「聖体拝領唱」には、師匠の遺した第1~2楽章の音楽を、そのまま填め込んだ。私はこの処置を、あえて愚挙と呼ばせてもらいたい。たとえ、それが楽聖モーツァルトの指示であったとしてもである。

 「生者たちへの慰め」と捉えるにせよ「悲しみの仕事」に譬えるにせよ、「レクイエム」という楽曲の任務が今にも完遂されようという時に、聴く者を死の恐怖に再び突き落とすような、曲頭の絶唱を蒸し返してどうするのか。なるほど「聖体拝領唱」の歌詞は、第1楽章「入祭唱」と似ていると言えるが、しかし「主よ、永遠の安息を彼らに与え、尽きせぬ光もて照らしたまえ」云々という言葉は、追悼儀式の初めに唱えられる場合と、終わりに唱えられる場合では、おのずから意味合いが異なってくるだろう。字面が似ているという皮相な理由によって、冒頭楽章の暗澹たる音楽を流用してしまうようでは、宗教人類学的にも心理学的にも失格なのである。

 私は第2楽章「主よ憐れみたまえ」のせわしないフーガを耳にする度に、壇ノ浦の海底を駆けずり回る平家蟹の集団が思い浮かび、忍耐の限度に近いほどの不安や恐怖を覚える(但し「死の不安や恐怖」というより、多くはもっと抽象的なものだが)。とはいえ、第2楽章として聴く限りにおいては、この音楽は、私にとって必ずしも「怖い音楽」ではないのだ。引き続き第3楽章以下に耳を傾けることによって(そこにもまた「怖い音楽」が含まれているけれども)、胸中に生じた不穏をゆっくり消化してゆけるからである。同じ音楽が「入祭唱」と共に、歌詞だけ替えられて最終楽章に現れ、そのまま全曲が結ばれてしまうからこそ、そのフーガ合唱は徹底的に「怖い音楽」として、私の前に逃げ場なく投げ出されるのであり、そしてこうした「悪夢再現」型の楽曲構成ゆえに、モーツァルトが着手しジュースマイヤーが補筆完成した「レクイエム」は、長年CDも買えないほどの「怖い曲」であり続けたわけである。 # by nazohiko | 2006-08-01 13:35
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by nazohiko | 2006-08-01 13:35 | ☆旧ブログより論考・批評等
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