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レクイエム K.626(3)

 更に、楽曲の進行過程に注目してみよう。心理学には「悲しみの仕事」という考え方がある。悲嘆や絶望を、理性や無関心で抑え付けようとするよりも、一度は思い切ってそれらに耽溺した方が、むしろ平静の回復に向かう段階に進みやすいのだそうだ。この「悲しみの仕事」が辿ってゆくとされる過程に、試みに照らし合わせるなら、モーツァルトの「レクイエム」は第8楽章「涙の日」に至って、その名の如くに涙を流し尽くし、ここを転回点として、次第に感情の振幅が収まってゆくという、音楽構成を取っているようである。もうちょっと細かく言えば、死に対する不安や動揺を露わにする第1~2楽章、あまつさえ死者の冥福そっちのけで、自身が「最後の審判」によって滅ぼされないよう泣訴する第3~7楽章を経て、「涙の日」の合唱に達する。

 歌詞を穿鑿的に読んでみて面白いのは、冒頭楽章では「彼ら(死者たち)」の安息を祈るという内容であったのが、第3~7楽章の歌詞は、ひたすら「私(生者)」の破滅回避を乞うものとなり、「涙の日」の歌詞の最終行で、ようやく「彼ら」に目を向ける余裕が帰ってくることだ。そして、第9楽章「主なるイエス・キリスト」以後には、「私」を前面に押し出すような歌詞が、もはや現れなくなる。また、こうした推移と並行するかのように、それまで歌詞に頻出していた、「裁く者」や「恐るべき者」としての神イメージが、第9楽章からは「救う者」「罪を除く者」や、「栄光を発出する者」「祝福を受ける者」という描かれ方に主役を譲るのである。 歌詞という側から「悲しみの仕事」とのアナロジーを試みても、やはり「涙の日」を境として帰路に踏み出す格好になる。

 モーツァルトの「レクイエム」は、純粋に楽曲設計上の理由(全14楽章のメリハリ)から、「涙の日」と「主なるイエス・キリスト」の間に、音楽的な曲がり角を設けたのだというよりも、カトリック教によって予め定められた歌詞が、もとよりそこに転回点を備えていたわけだ。モーツァルトの筆が入った第9~10楽章を承けて、ほぼジュースマイヤーの作曲と言える第11~13楽章では、いよいよ長調の箇所が目立つようになり、また音楽の印象として若干淡白になるようだが、こうした作風がモーツァルトの意を汲んだものであろうとなかろうと、歌詞への忠実を目指したという点において、ジュースマイヤーは正しい選択をしたのである。もしかしてカトリック教は、意識的あるいは無意識のうちに、生者のために「悲しみの仕事」を手伝ってやる場として、追悼儀式や「レクイエム」の歌詞を形作っていったのだろうか。# by nazohiko | 2006-08-01 00:16
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by nazohiko | 2006-08-01 00:16 | ☆旧ブログより論考・批評等
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