by 謎彦 by なぞひこ
by Nazohiko
最新の記事
4月1日
at 2017-04-01 21:12
君よ知るや「カニのタルト」
at 2017-03-31 15:18
君よ知るや汝窯の青磁水仙盆
at 2017-03-09 23:15
君よ知るや台湾紅茶と台湾ウィ..
at 2017-03-08 21:30
当たり前ポエムと言えば……。
at 2017-03-08 00:32
カテゴリ
全体
◆小説を読む
◆小説を読む(坊っちゃん)
◆論考を読む
◆詩歌を読む
◆漫画を読む
◆動画を視る
◆音楽を聴く
◆展覧を観る
◇詩歌を作る
◇意見を書く
◇感想を綴る
◇見聞を誌す
☆旧ブログより論考・批評等
☆旧ブログより随想・雑記等
☆旧ブログより韻文・訳詩等
☆旧ブログより歳時の話題
★ご挨拶
以前の記事
2017年 04月
2017年 03月
2016年 11月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 03月
2015年 07月
2015年 05月
2015年 02月
2014年 04月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 08月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2003年 08月
2003年 07月
2001年 04月
検索


レクイエム K.626(2)

 ここが、私には問題なのだ。「レクイエム」は本来、カトリック教の追悼儀式に使われる楽曲であり、それは死者本人に呼びかけるというより、彼らの神に対して、死者に平安を与えてくれるよう懇願する儀礼であると聞く。カトリック教の制定した「レクイエム」の歌詞を縦覧しても、そのことが明らかに窺われるが、しかし神学的ではなく宗教人類学的に見るなら、あらゆる追悼儀式は畢竟「参会者たちを慰めるために」行われるのである。つまり、誰かの逝去によってもたらされた動揺や、それにより引き起こされる「自身の死」への恐懼から脱して、日常的な精神生活に復帰してゆくことを助けるため、生者たちに提供される1つの装置なのだ。死というものが、絶対的に不可逆な変化であるからには、追悼儀式や「レクイエム」という楽曲の構成も、生者たちの心に停滞や後戻りを生じさせないような、少なくとも大枠としては前進型の過程でなくてはならない。仮に、死んだはずの人がひょっこり戻ってくる場合があるというなら、訃報がめでたく取り消されることを願って、いつまでも執着的に祈祷していればよいのだけれども。

 このあたりは、モーツァルトが「レクイエム」を制作するにあたっても、十分に心得ていたと見受けられる。冒頭楽章の中程に現れる「宮内卿のメロディ」は、すぐ短調の泥海に呑み込まれてしまうが、他にも第4楽章「奇しき喇叭の音」や第6楽章「イエスよ思い出したまえ」などの長調箇所に、「愛すべき」というより「愛らしい」楽句が、意外なほど豊かに散りばめられている。また、この曲の楽器編成には木管楽器がとても少なく、バセットホルン(クラリネットの原形)とファゴットしか入っていない(フルートやオーボエやフレンチホルンを欠く)のだが、そのバセットホルンが、あたかも「癒しの響き」を一手に引き受けるかのように、要所要所で存在感を発揮するのである。「宮内卿のメロディ」もバセットホルンに先導されて出てくるし、物柔らかな第6楽章もバセットホルンなしには成立しない。ジュースマイヤーが管楽器パートを書き足した楽章や、彼自身が作曲を手がけた楽章についても同様であり、第8楽章「涙の日」・第12楽章「祝福されよ」・第13楽章「神の子羊」の中で、私たちは「癒しのバセットホルン」に聴き入ることができる。モーツァルトの筆による部分と、ジュースマイヤーの筆による部分の間では、昔から「作風の相違」や「品質の落差」が云々されてきたが、バセットホルンのこうした用法に関する限り、この曲は十分な一貫性を備えていると言えるのである。# by nazohiko | 2006-07-31 22:15
[PR]
by nazohiko | 2006-07-31 22:15 | ☆旧ブログより論考・批評等
<< レクイエム K.626(3) レクイエム K.626(1) >>