by 謎彦 by なぞひこ
by Nazohiko


扇というもの

 塚本邦雄の『詞華美術館』は、合計27のテーマのもと、それぞれ古今東西の詩歌・小説・戯曲を抜粋して作られた1冊である。単なる「名句の寄せ集め」ではなく、塚本の言葉を借りれば、長篇の断片や短詩の数々を「趣向を凝らして配合し、その人工的な邂逅によつて醸し出される不思議な味はひを楽しんで」みようという所に面白さがある。

 さて、その「流扇興」と題された章を読んでいて、ふと思い至ったことなのだが。

  あまのがは扇の風に霧はれて空すみわたるかささぎの橋
  あふげども尽きせぬ風はきみがためわがこころざす扇なりけり
  添へてやる扇の風し心あらば思はむ人の手をな離れそ
  舟出する君に手向くと吹く風はなれて年経し扇なりけり
  かはほりにわれ張りこむる涼しさを思ふが方の風といとふな
                         (『古今和歌六帖』「扇」)

  六月の照る日もいかで過さましたのむ扇の風なかりせば(兼宗)
  夕まぐれならす扇の風にこそかつがつ秋は立ちはじめけれ(慈円)

 塚本が掲げたこれら7首に限らず、和歌において扇が扱われる場合には、「風を発する」という扇の本来の用途に、どこまでも密着して詠まれる傾向にあるのではないか。「君」に自分の「思」を伝えようとする場面に、扇が登場してくるものが、上記の作品群にも散見されるが、扇そのものに「思」が結晶させられているわけではない。あくまで自分の持つ扇や、自分の贈った扇が、「君」に向かって吹きかける風に、「思」の伝達が託されるのである。

 扇が「風を発する」道具として認識されるのは、当たり前ではないかなどと言わないでいただきたい。塚本は一方で、このようなフランス近代詩を掲げている。

  おお 夢見る女よ、あなたを純粋な
  至楽の迷路に引入れるためには、微妙な
  手段だが、あなたのお手の中に、私の
  翼を開いて、握つて戴きたい。

  (中略)

  あなたのお口の片隅から 扇の襞の
  何処から何処まで一様な底に流れて
  隠された忍び笑ひと 慴れるやうな
  天国とを あなたは感じられないか。
                     (マラルメ「扇」、鈴木信太郎訳)

 「私の翼を開いて、握つて戴きたい」というのは、つまり自分の手の延長として、扇が捉えられているわけだ。厳密に言えば、「私が贈ったもの」や「私に代わって、あなたに風を吹きかけるもの」としての「手の延長」ではなく、肉体の一部品として、指や掌に活着した「手の延長」なのである。そして、忍び笑いが「あなたのお口の片隅から 扇の襞の何処から何処まで一様な底に流れて」と詠まれる時、「夢見る女」がいま口許を押さえている扇は、彼女の口許の表情筋と一体化したもの、彼女の肉体の一端として、「私」の目に映るのだ。この「扇」と題された詩の中に、風を起こすために扇を動かすという行(くだり)は、全く現れない。

 私は和歌ほどには西洋詩に明るくないので、扇に寄せるこのような眼光が、マラルメ以外の作品にも頻繁に見出されるものかどうか、皆様のご教示を仰ぐしかない。ただ推測するに、「扇は持ち主や贈り主の肉体である」という認識が、或る程度まで共有されていたからこそ、例えばワイルドの『ウィンダミア卿夫人の扇』のような戯曲に、当時の観衆が釘付けになったのではないか(ちなみに、塚本もこの戯曲に少しく言及している)。謎の婦人からウィンダミア卿に贈られ、卿の邸宅に持ち込まれた扇は、それが婦人の肉体であるゆえに、言い替えればそこに婦人が臨在するゆえに、無言なれども雄弁な侵入者として、卿夫人の心をあれほど攪乱するのだろう。

 和歌の扇は、風を起こすという機能によって、持ち主や贈り主の存在感を「君」に投げかけるものであり、西洋近代の詩や戯曲に出てくる扇は、それ自体が持ち主や送り主の肉体の一部として、存在感を発揮するものである……というのが、本日の「謎彦の予想」であります。# by nazohiko | 2006-07-25 14:15
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by nazohiko | 2006-07-25 14:15 | ☆旧ブログより論考・批評等
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