by 謎彦 by なぞひこ
by Nazohiko


謎太郎の日記(4)

昨日は、夏石番矢の「岡井隆論:遠い人体」に関するメモを、「この稿未了」の断り付きでアップロードした。文章を書く時間が足りなかったわけでも、ブログ記事の字数制限を超えてしまったからでもなく、そもそも私は、そのような理由で未完稿や未定稿を人目に曝したりしない。少しはものが言えたと思う一方で、当面はこれ以上前進しづらいと判断したので、「未了」のまま日なたに出してみたのだ。

夏石の評論を2度精読し、思い付いたことや考え至ったことを検証するために、部分的な読みを繰り返した段階で、私の脳裡には、ワカッタコトとイイタイコトが、はっきりと像を結んでしまったように見えた。図面はもう完成したのだから、それらを文章としてアウトプットすることは、たわいない作業であろうと予想した。

ところが、「この稿未了」の前までを書き終わり、肝心の「自分が夏石に対して異見あるところ」に筆を進めようとした途端に、私は適切な語彙を選び並べてゆく力を失い、文章を先に続けられなくなったのである。その理由は、ほどなく分かった。夏石のいう「人体」の概念に対して、読解に曖昧な部分が残っていたことや、夏石の例示した金子兜太の俳句が、本当に「人体を外側から描き出す」ものであるのかどうか、自分の解釈に確信を持ちかねていたことによって、私の論旨が一本の堅実な線となり得なかったからだ。明瞭かつ完結的に描かれていたように見えた図面は、それを言語化してゆく作業を通じて、脆弱な部分を露呈したわけである。

要するに、私には夏石の評論が読み切れていなかったのだ。読みが十分に固まっていなかった。そのような状態にあって、自分の裡に生じた夏石へのレスポンスを、満足に言語化できなかったのは当然だと言えよう。頭で考えるだけでなく(勿論この段階でも、言語の働きは少なからず介在するが)、文章に書いてみることによって、自分の読書力や構想力が現時点でどれほどのものか、手に取るように知れてしまうのだなあというのが、今回の教訓である。考エタラ書イテミヨ。書イテミテ初メテ、汝ノ考エタコトヲ完成ニ導クコトガデキル。図面のどこが弱かったのか、既に理解できたからには、私はいつの日か「この稿未了」の断り書きを取り払い、読書メモを最後まで綴ることができるだろう。

とはいえ、いざ言語で表現してみると、脳裡にたゆたっていた時には、あれほど豊かに伸び広がっていたはずの思考や情動が、似ても似付かないほどに枝葉を刈り込まれ、矮小で生彩のない姿を呈してしまうというのも、多々ある現象だ。大抵の場合は、そんな姿に落胆しているうちに、もともとの樹影や図面をきれいさっぱり忘れてしまうものだから、いよいよ始末が悪い。

備忘や推敲のための文章を試みて、却っていろいろなディテールを失ってしまうよりも、いっそ原始的な豊かさを保ったまま、忘れてゆくに任せた方が幸せなのかもしれない……言語によって頭脳からアウトプットするという作業をめぐっては、そんな極言さえ許されなくはないだろう。心ニ浮カブヨシナシ事を、強壮に育ててくれるのも言語なら、卑小にまとめてしまうのも言語。それは諸刃の剣なのである。# by nazohiko | 2006-07-08 01:13
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by nazohiko | 2006-07-08 01:13 | ☆旧ブログより論考・批評等
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