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夏石番矢『天才のポエジー』(2)

 夏石番矢の評論集『天才のポエジー』には、「岡井隆論:遠い人体」と題する文章も収録されています。私にとって岡井を論じることは、塚本邦雄や斎藤茂吉に切り込むよりも難しく思われるため、「夏石の岡井論や如何に」と飛び付くように繙いてみたのですが、実のところは、夏石のいう「人体を明らかに描き出しえないことばの本来的な限界」をめぐって、岡井(短歌)と金子兜太(俳句)がどのように対処しようとしたかを、簡潔に比較したものでした。

 「岡井隆論」としての正面突破を期待していた私にしてみれば、いわば羊頭狗肉の1篇でしかなかったわけですが、しかし当初の期待とは別の面において、この評論は、モノを考えるための契機を私に与えてくれました。

 この「遠い人体」と題する評論の冒頭で、夏石はひとつの命題を示します。曰く「人体を明らかに描き出しえないことばの本来的な限界」、曰く「ことばが追い詰めようとすればするほど、人体は遠ざかる」、また曰く「表皮という薄皮の外側から見ても、その内側へと踏みこんで見ても、人体は異様な物体だと言えるだろう」。

  母の内に暗くひろがる原野ありてそこ行くときのわれ鉛の兵
  父よ その胸廓ふかき処にて梁からみ合うくらき家見ゆ

夏石はこれらの岡井短歌を指して、「表皮の内側へことばが進もうとしても、ただくすんだ視像しか手に入れられなかった」詩的表現の例であると述べます。そして、更に岡井の作品を例に挙げてゆきながら、「人体の内部へとことばを送りこもうとした場合には、異貌の人体が見え出す」と言葉を続けるのです。それは、他者の肉体を描こうとした場合でも、自己の身体存在を描こうとした場合でも同じこと。

  【他人の肉体】
  肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は
  死期は延々、砂(いさご)のような膚となり日が沈むそのいさごの上に

  【自己の肉体】
  部屋に突っ立つ時一対の火の鳥を胸中ふかく羽ばたかせおり
  吊さるるわが肉のうち杉苗のたおやかに立ちなおりゆく幹
  燃えおちる内なる橋の数知れず病む訴えのなかを行く時
  兵はゆく名もなきいくさわが行くはいずこ神経の雷管抱いて

「最も近しいはずの人体、つまり自己という身体存在に近づこうとすればするほど、視野がかすむ。次に、かすんだヴィジョンに対応するような異物を喚起することばを作品に導入せざるをえなくなり、その結果として一首が混ぜ物の性格を強めて、一語一語がぶれを起こす」のだというわけです。

 こうした作例と対照されるのが、「前衛短歌運動」と「前衛俳句運動」において相似的な役割を担ったとされる金子兜太の俳句です。金子の作品にも、人体を扱ったものが多いのだとか。

  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
  新秋や女体かがやき夢了る
  まら振り洗う裸海上労働済む
  車窓より拳現われ旱魃田
  海にでて眠る書物とかがやく指
  どれも口美し晩夏のジャズ一団

夏石は金子の句を岡井短歌と比較して、「金子兜太の作品では、確固として存在することを疑われない人体が、外側から描き出されているのに対し、岡井隆の作品では、異貌をさらけ出しながら接近不可能と思われる人体が、ことに透視されて描き出されている」と述べます。「別の言い方をすれば、金子兜太のことばは、人体へ通じると信じられている一本道を歩んでいるとしたら、岡井隆のことばは、人体へ通じることのない複数の迂路を彷徨している。両者のこのような違いは、『前衛短歌』、『前衛俳句』のゆくえに大きな影を投げかけたと思われる」……これが、評論「遠い人体」の事実上の結尾であり、残りの1頁ほどは、「迂路」という語を一人歩きさせて。言葉遊びに興じるような部分にすぎません。

 夏石の示した前提(公理)と、それを承けての論理展開に従う限り、この「岡井・金子比較論」は簡明にして十分な整合性を備えていると言えるでしょう。「人体を明らかに描き出しえないことばの本来的な限界」という夏石の前提を、私も経験的また直感的に支持したいと思います。ですが、その前提をどう価値評価するかについては、異見を抱かされるところで、それゆえに、私が夏石に触発されて考えた「岡井・金子比較論」は、夏石と同じではない帰結を持つことになります。

 夏石と私の間で違いが出てくるのは、つまり「人体を明らかに描き出しえないことばの本来的な限界」に行き当たることを、歌人や俳人としての挫折であり悲劇であると意識しているように、用語や措辞の端々から推察されるという点においてです。詩歌の表現によって、人体をそれ自体として「明瞭に見透かす」ことが不可能だから、岡井は人体の透視図を家屋・都市・機器・自然風景などのメタファーによって描いたというわけですが、夏石はそれを「くすんだ視像」「混ぜ物の性格」「迂路」であると、マイナスイメージで評しました。また金子は金子で、人体を外から描くことに徹したわけですが、夏石はその営みに対しても「確固として存在することを疑われない人体」や「人体へ通じると信じられている一本道を歩んでいる」という、やはりマイナスイメージや懐疑が覗われるような評言を与えています。人体を「明瞭に見透かす」ことが、神々ならぬ人間にも可能であることを希求しながら、一方ではそのような認識が「ことば」によってはもたらされないのだと悔しむ夏石であればこそ、人体を家屋や都市になぞらえる岡井に苛立ち、「ことば」を無邪気に信じる金子とも、一線を画さざるを得なかったのでしょう。

(この稿未了)

# by nazohiko | 2006-07-07 16:17
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by nazohiko | 2006-07-07 16:17 | ☆旧ブログより論考・批評等
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