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夏石番矢『天才のポエジー』(1)

 最近読了した本のひとつが、夏石番矢の評論集『天才のポエジー』です。この本を初めて見つけたのは、出版されて間もない1993年のことでしたが、相撲でいうところの「立ち合いの呼吸」が合わず、パラッと捲ったきりで書架に戻してしまいました。その後も都合4度か5度の「立ち合い」を繰り返した末、今回ようやく夏石と謎彦が四つに組み合った次第です。13年という時間のうちに、「立ち合い」の場所は新刊書店から古書店に移ってゆきました。

 私の力量(話題に反応できる教養力と、論理を消化できる読解力)の範囲で受け止める限り、夏石の評論は「透徹した視線や、包括的な視野に舌を巻くもの」と「とんちんかんな話題提供や判断に当惑してしまうもの」に、はっきりと二分されます。特に、文章の冒頭で示される問題設定において、そうした黒白が決まってしまう傾向にあると思うのですが、今回読んだ『天才のポエジー』の中では、私が前者に分類したい評論として、例えば「高浜虚子論:大空の愉悦」がありました。

 高浜虚子の俳句には、天空や天体(太陽・銀河など)を詠んだものが少なくありませんが、夏石はまず虚子の随筆「冬日」を紹介し、虚子には「日本の力ない冬の夕日」に対する愛着が見られることを指摘します。そして更に、

  冬の空少し濁りしかと思ふ
  秋晴の少し曇りしかと思ふ
  一塵を見つけし空や秋の晴
  天気やゝおちたるかとも冬日和
  浅き春空のみどりもやゝ薄く
  濁りしと思へど高し秋の空
  秋晴や午後は曇ると聞きしかど
  春の天おほどかにしてやゝ曇る
  匂やかに少し濁りぬ秋の空
  秋の空濁るといふにあらねども
  ほのかなる空の匂ひや秋の晴

といった句を、「不透明であるとはいってもなじみやすく、あたたかで、包み込んでくれるような日本の大空に対する親しみを、のどかにこめた作品」の実例として、発表時期順にピックアップするのです。

 そうした愛着は、必ずしも「晩年の虚子の年齢相応の趣味」に限られません。夏石は引き続き『虚子自伝』の幼少期に関する回想に拠って、虚子の親しんだ瀬戸内海の夕景が、虚子自身によって「母性的」な印象で語られる原風景であることを突き止めます。「このような原風景から、大空や太陽を中心とする母性的な視像が俳句に生じた」というわけです。

  秋の空に届く一もと芒かな
  大空に又わき出でし小鳥かな
  大空に伸び傾ける冬木かな
  大空にあらはれ来る柳絮かな
  大空に羽子の白妙とどまれり
  清浄の空や一羽の寒鴉
  目にて書く大いなる文字秋の空

夏石の言葉によれば、「大空は、これらの高浜虚子の俳句において空白であったり、空無であったりしない」ものです。「大空は小さな存在たちを受け入れながら、束縛することなく自在さを与えているのであった。大空は大いなる母の包容力を持っていると言えよう。その大いなる包容力を求めることが、高浜虚子の原欲望もしくは原志向だったのではないだろうか」……それが、夏石のいったんの結論になります。

 但し、ここで文章が終わるわけではありません。夏石は「いままで述べてきた虚子の志向」を鏡として、「何から虚子が目をそむけ、忘れようとしたか」に興味を転じてゆきます。

  天の川のもとに天智天皇と虚子と
  初空や大悪人虚子の頭上に
  われの星燃えてをるなり星月夜
  秋天にわれがぐんぐんぐんぐんと
         (※原文は2度目と4度目の「ぐん」を反復記号で表記)
  虚子一人銀河と共に西へ行く
  冬晴の虚子我ありと思ふのみ
  春空の下に我れあり仏あり
  我が額冬日兜の如くなり
  初空を仰ぎ佇む個人我(虚子)

ここでも発表年代順にピックアップされた9句を前にして、「大空を背景とする高浜虚子の一人舞台が、これらの作品によって演じられている。(中略)高浜虚子は、大空の包容力を分かち持ったかのようだ」と夏石は読み取ります。そして、再び随筆「冬日」や、

  我いつか冬日になつてしまひたる
  あの冬日我がものにして有難し

といった句を引用しながら、「虚子の原志向には、社会的な諸関係や他者を忘れようとする欲求がひそんでいたとも考えることができるだろう。(中略)この夢想は、自己を平穏なままで拡大してゆきながら、あらゆる他者からの退行をもくろんでいるのだろう。また、本当は手に入らない欲望の対象に、自分自身が変身するにいたるという一種の倒錯をも読み取っておかねばならないだろう」と指摘するのです。

 「よく考えてみると、このような俳句作品における他者の欠如は、虚子の死後いまにいたるまで俳句表現史の課題として残っている。虚子の自己拡大的かつ退行的夢想の系譜は続いているが、それを補うべきもう一つの極は、いまなお手があまりつけられていない。(中略)高浜虚子の俳句の中核に見られる大空の愉悦は、はたして私たちを他者からさえぎり続けてゆくほど絶対的だろうか」という言葉が、この評論の本当の締め括りとなりますが……。私には知識や関心の薄い「俳句表現史の問題」や、「私自身の文芸創作の中で、他者をどのように扱ってゆけるか」という実践的課題についてはさておき、虚子俳句という掴み所がなく、ドラマティックでもない(と私が思っていた)作品群を俎に載せながら、かくも確乎たるストーリーと、意外性のある結末を導き出した夏石の手腕に、まずは拍手を送りたいと思いました。

 もちろん、虚子の遺した俳句は膨大ですから、夏石が言及しなかった句を集めてくることによって、また別のストーリーを作ることも可能でしょうし、評論の中で紹介した俳句のみを再検討することによって、夏石の論旨を相対化してしまうような別ストーリーを立てることも、不可能ではないはずです。ただ、それにしても、この「大空の愉悦」という評論は面白かった!# by nazohiko | 2006-07-01 20:00
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by nazohiko | 2006-07-01 20:00 | ☆旧ブログより論考・批評等
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