by 謎彦 by なぞひこ
by Nazohiko


謎太郎の日記(2)

読書経験と執筆経験を、ちょっとずつ重ねるうちに、だんだん確信に変わってきたことがある。

それは、派手なレトリックや刺激の強い語句を、次から次へ繰り出してくるタイプの論述には、論理展開の着実性や結論の必然性について、却って自信のなさを暗示するものが多く、また実際に、論述自体として脆弱なものが多いということだ。

「文体の静騒」と「行論の精粗」に必ずしも相関関係がないことは、幾つかの偉大な例外を通して、経験的に知っているし、まして両者は因果関係で結ばれるものではなかろう。しかし、かといって私たちは論文や評論を書くにあたって、「良い内容でさえあれば、読者はきっと高く評価してくれる」と安心してもいられないように思う。

なぜなら、さして独創的でも高感度でもない私が「騒がしい文体で為された論述には、内容に自信を欠き、実際に内容の劣ったものが多い」と察知したからには、まさにその洞察を働かせて、「騒がしい文体」の論文や評論を門前払いにする人が、既に少なくないのだろうと予想されるからだ。

せっかく「優れた知見」を「正しい論理展開」で綴ることができたのに、プレゼンテーションが気に食わないという理由によって、読者になってくれる人を失ってしまった……そんな事態が起こるとすれば、惜しむに余りあることではないか。

論述という形でモノを伝えようとする場合には、「何を伝えるか」(論述の内容)においては、理想として誰にも気兼ねするべきではないだろう。だが、「どのように伝えるか」(論述の言葉遣い)においては、むしろTPOに臨機応変して、読者に門戸を開いてもらう技量と度量を持ちたいと、私は思うようになってきたのである。

言うは易く、行うは難いのだけれど。# by nazohiko | 2006-07-01 00:43
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by nazohiko | 2006-07-01 00:43 | ☆旧ブログより論考・批評等
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