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前奏曲とドン・ジョヴァンニの死

昨日の拙文は、実は以下の文章を書こうとしていたら、前置きが長くなってしまったものです。

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ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」は、幕間の休憩を抜いても約4時間を要する大作です。その前奏曲と、イゾルデ姫の独唱によるラストシーン「愛の死(Isoldes Liebestod)」を繋げ、合計15分余りの組曲「前奏曲と愛の死」としてコンサートで演奏するという慣例は、後にワーグナーの岳父となったリストが作ったのだそうです。

所謂「憧憬のモティーフ」によって前奏曲は始まり、同じモティーフによって「愛の死」が閉じられるという、首尾一貫ぶり。また、前奏曲が最弱音に終わるのを承けて、おもむろに「愛の死」が歌い起こされるという接続ぶりは、2つの曲があたかも当初から一体を成していたかのようです。

なおかつ、比較的「息」の短い楽句によって、次々に「問いかけ」を繰り出してゆくような前奏曲に対し、豊麗なソプラノ独唱によって、奔流のように「解決」が示される「愛の死」です(このオペラのラストシーンを、真正な「解決」だと見なすことについて、私は幾分懐疑的ですが)。器楽的な造りの前奏曲に対して、声楽的な造りの「愛の死」、という対照もできるでしょう。

このように両面から「前奏曲と愛の死」を見てみると、YMOのアルバム「テクノデリック」の末尾に収められた一続きの楽曲「プロローグ」と「エピローグ」を、ふと思い出したりもするのですが、それはともかく、この「前奏曲と愛の死」方式を、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」にも応用してはどうかと、私はかねがね考えてきました。

「ドン・ジョヴァンニ」の序曲は、オペラの現行版では最終場面のひとつ手前に当たる、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちシーンから取った、ニ短調のおどろおどろしい序奏に始まります。やがて、ニ長調を中心とする急速な主部にバトンタッチしますが、この主部がソナタ形式を践んで「提示部→展開部→再現部」と進んでゆき、いよいよ終結部の盛り上がりに向かってゆくように見えた途端、たちまち音楽は萎えてしまい、ヘ長調の属和音の弱奏という、3重の意味で中途半端に終止します。

序曲がこのような形で、いわば途切れてしまうのは、引き続き第1幕の音楽が、他ならぬヘ長調の弱奏でスタートするからで、つまりオペラ全体の中に埋め込んだ場合には、序曲の構成を納得できないわけでもありません。しかし、モーツァルトのオーケストラ曲のうちでも、この「ドン・ジョヴァンニ序曲」は屈指の名作だと思います。オペラ鑑賞の際に聴くだけでなく、ぜひ単独でも楽しみたいものですが、そのまま演奏したり、全曲盤から序曲だけ取り出して聴いたりするのでは、何とも冴えないことになってしまいます。コンサートで演奏するために、モーツァルト自身や同時代の無名氏が、古典派の約束事通りニ長調で盛大に締めくくる終結部を書き足したこともありますが、あいにくいずれも空疎な音楽ばかりで(モーツァルトらしくもない失策)、そのせいか「ドン・ジョヴァンニ序曲」が単独演奏される機会は、同等の傑作である「フィガロの結婚」や「魔笛」の序曲に比べて、これまで明らかに少なかったような印象です。

要するに、主部に劣らないほど充実した終結部をあてがってやることができれば、「ドン・ジョヴァンニ序曲」は天下晴れて「自立した名曲」になり得るというわけですが、そこで私は「前奏曲と愛の死」方式を提案するのです。あれよあれよと萎えてゆく本来の終結部に代え、オペラ全篇を閉じるオーケストラ後奏を、そこに填め込むことによって、序曲を大音量で締めくくる。このようにすれば、モーツァルト渾身の「ドン・ジョヴァンニ序曲」を十分に受け止める終結部が、モーツァルト自身の筆によって得られるというものです。

それでは、オーケストラによる後奏をオペラの掉尾から剥がしてきて、序曲の終結部として用いるという場合に、然るべき「オペラの掉尾」とは一体何処になるのでしょうか。歌劇「ドン・ジョヴァンニ」には、掉尾と呼び得る箇所が2つあるのです。

ひとつは、現行版のラストシーンであり、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちを知った登場人物たちが、各々今後の身の振り方を考えた上で、闊達なニ長調で「悪人には報いが下るのだ、下るのだ」と声を揃えます。これに続く13小節の後奏を使ってもよいでしょうし、オーケストラ総員で強奏される、最後の最後の5小節だけを使ってもよいでしょう。もうひとつの掉尾は、先にも触れましたが、そのひとつ手前です。ドン・ジョヴァンニが生きながら地獄に落とされるシーンであり、オペラの筋としてはここで完結しているとも言えますし、実際にモーツァルトは、この場面をラストシーンとして「ドン・ジョヴァンニ」上演を試みたことがあります。ここに「掉尾」を求めるのであれば、やはりクレッシェンドを経てフォルテに達する、緊迫した5小節の後奏があり、序曲の終結部として借用するにも、繋がり具合に申し分がなさそうです。どちらを選ぶのが、より適当でしょうか。

「地獄落ちの場」から取った序奏に始まる「ドン・ジョヴァンニ序曲」ですから、同じ場面の音楽で締めくくる方が、楽曲のまとまりという点では優れているかもしれません。しかし、冒頭と終結がまるで同質の音楽、それも厳粛で高圧的な調べであるがゆえに、却って「まとまり過ぎ」に陥り、聴後感が窮屈になってしまうきらいがあります。このマイナス面の方がむしろ重いように、私には思われます。

現行版ラストシーンのオーケストラ後奏を、序曲の終結部として用いれば、「慄然とした序奏(抑圧的)→快楽的な主部(開放的)→歓呼する終結部(より開放的)」というプログラムになり、首尾一貫度という点では後退します。しかし、序奏と主部の間で「抑圧から開放へ」の転換を経験してしまっている以上、開放的性格の強い終結部に流れ込んでゆく方が、楽曲の「広がり」という点では、むしろ優れるでしょう。

なおかつ、現在の私たちにとって、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」のラストシーンとして慣れ親しんでいるものは、「地獄落ちの場」ではなく、まさにここなのです。現行版ラストシーンのオーケストラ後奏が、序曲の締めくくりとして借用されていてこそ、楽劇「トリスタンとイゾルデ」の抜粋として「前奏曲と愛の死」を聴き終わった時と同じように、私たちは歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の全篇を再び見届けたかのような満足感を、擬似的ながら味わうことができるというものでしょう。故に、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」をよく知る人に対しても、そうでない人に対しても、これがベターな選択であろうと言えることになります。

如何なものでしょうか。# by nazohiko | 2006-06-11 08:32
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by nazohiko | 2006-06-11 08:32 | ☆旧ブログより論考・批評等
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