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「春を忘るな」と「春な忘れそ」

・東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
・東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ

菅原道真が太宰府へ逐われてゆくときに、詠んだという歌です。ここ数日は暑くて、ついさっきまで春だったことを忘れそうですね。今晩はそんなよしみで、この歌のことを話題にしてみようと思います。

上に掲げたように、この歌には結句の異なる2つのヴァージョンがあります。いずれにせよ、結句では「春を忘れてはならない」と呼びかけているのですが、前者は『拾遺和歌集』を現存最古の掲載例とする形で、後者は『大鏡』を現存最古の掲載例とする形です。

あなたは「春を忘るな」と「春な忘れそ」の、どちらがお好きですか。文学史家の研究によれば、「春を忘るな」が道真オリジナル(に近い)そうですが、どちらが「正しいか」という史学的あるいは神学的(天神様のオコトバですから)な問題はさておき、私は一介の和歌読者として「春を忘るな」のほうが好きです。

「忘れる」を先回りするかのように「な」を置き、「な」と呼応する「そ」で動詞を挟み込んだ「春な忘れそ」。禁止の語気が「春を忘るな」よりも徹底しているように感ぜられる分、秀でた結句だという声もあります。しかし、私はまさにその理由によって、「春な忘れそ」は一段つまらないと思うのです。

「な~そ」の構文を例外として、日本語では否定語を動詞の後ろに置きますね。「最後まで聞かないと、肯定文か否定文か分からない日本語」として、しばしば揶揄される点でもありますが、日本語のこうした特徴は、或るレトリックに訴えるときにプラスに働きます。

それは、緩叙法です。緩叙法にもいくつかの分類がありますが、「述語の末尾に否定語を置く」という日本語が力を発揮するのは、「Aではない」と述べることによって、却って「Aだ」というメッセージを匂わせるレトリックです。最も典型的なのは、「嘘ではないのだが」と言い収めることによって、「とはいえ本当だとも断言できない」という心持が、同時に伝わるというものです。

道真の歌に戻りますと、私は「春を忘るな」に緩叙法を見出します。この結句からは、額面通りの「春を忘れてはならない」という禁止命令の背後に、「春を忘れてしまう」梅の木の姿や、梅の木が「春を忘れてしまう」かもしれないという道真の嘆きまでが、透けて見えてくるようです。

「春な忘れそ」という禁止命令には、額面価値以上の深みがありません。道真は、梅の木が命令通りに「春を忘れない」だろうと高をくくっているか、さもなくば梅の木の行末を、本気で案じてはいないような語感です。功成り名遂げて大往生する人の辞世歌ではなく、心残りと無念に満ちて左遷されてゆく道真の述懐なのですから、心の揺らぎを湛えた「春を忘るな」こそ結句であってほしいと、私は思う次第です。 # by nazohiko | 2006-05-06 00:18
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by nazohiko | 2006-05-06 00:18 | ☆旧ブログより論考・批評等
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