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「幻想交響曲&レリオ」演奏会 寸感

日本フィルハーモニー交響楽団 第579回定期演奏会
2006年4月13-14日 午後7時 サントリーホール

◆ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14a
 小林研一郎(指揮)

◆ベルリオーズ:レリオ、または生への回帰 作品14b
 小林研一郎(指揮)
 辰巳琢郎(レリオ役)
 五郎部俊朗(テノール)
 大島幾雄(バリトン)
 早稲田グリークラブ 他(合唱)
 川口義晴(日本語版台本)
 岩田達宗(演出)
 成瀬一裕(照明)

 ベルリオーズの「幻想交響曲」(1830)には、実は続篇があったのです。それが「レリオ、または生への回帰」で、「幻想交響曲」の翌年(1831)に着手・完成されました。「幻想交響曲」が演奏会の人気プログラムであるのに対し、演劇的なこしらえの「レリオ」に接する機会は、CD等ですら極めて乏しいのですが、今回はそんな「幻想交響曲」と「レリオ」の2本立て、なおかつ「炎のコバケン」と呼ばれる小林研一郎が指揮を執るというのですから、私は飛びつくように切符を取り、演奏会の晩を心待ちにしていました。

 作品番号の順序どおり、演奏会は「幻想交響曲」に始まりました。多感でハイテンションなヴァイオリンと、時にアタック鋭く、時に粘度の高い低音楽器群を2本柱として、小林の率いるオーケストラは推進してゆき(そう、これらこそ「幻想交響曲」の命だと信じて疑いません)、精確にして雄勁な管楽器と打楽器が、音楽のいわば筋肉を務めました。弦楽器の群は、協和音と不協和音が交替しあうような箇所で、両者の表情を明確に奏し分けようとしていたように察せられ、それは寸刻たりとも安定しない情動を象徴するかのようでした。

 第2楽章「舞踏会」はハープが活躍しますが、予想していたよりも硬質な音色を発し、あたかも紳士淑女の自我が、金色の大広間に乱反射する有様か、そうでなければ主人公の青年を突き刺すような舞踏会の光輝のように映えました。第3楽章「野の風景」では、舞台の外で独奏されたオーボエの美音が、強く記憶に残りました。そして第5楽章「サバトの夜の夢」では、葬歌「怒りの日」に合わせて、細長いチューブ・ベルではなく、大型の鐘がハンマーで鳴らされ、その非常に尾をひく残響は、凶兆の赤い彗星の姿にも似て、全管絃楽に拮抗できるほど存在感がありました。

 強奏で締め括られる楽章のうち、第2楽章と第5楽章では、いずれも最後の和音を長々と誇示するあまり、少々のいやらしさを生じてしまったようでもありますが、今晩の「幻想交響曲」は大いなる満足を私に与えてくれました。


*      *      *      *      *


 休憩後にホールへ戻ってみると、譜面等を山積みした机・執務椅子・ソファーが、作曲家の書斎に見立てて、オーケストラの前に配置されていました。「レリオ」の主人公レリオは、ベルリオーズの化身と言うべき少壮作曲家で、「幻想交響曲」と「レリオ」を一続きの物語として上演した場合には、「幻想交響曲」に描かれた青年がすなわちレリオであり、更には「幻想交響曲」自体が、レリオが自殺未遂(阿片の服用)による昏睡中に見ていた悪夢だったことになります。

 「レリオ」は、全てがオーケストラだけで(言葉を伴わずに)表現される「幻想交響曲」と異なり、レリオ役の俳優による独白と、独唱曲・合唱曲・オーケストラ曲が交錯しながら進行します。第1曲「漁師、ゲーテのバラード」から第5曲「エオリアン・ハープの思い出」までは、独白するレリオの脳裏で響いている音楽であるため、今晩の上演では、オーケストラや歌手にほとんど照明を当てないことによって、そのことが表示されていました。最後の第6曲「シェイクスピアの『嵐』による幻想曲」に至って、レリオが自作を試演しているという設定のもとで、レリオだけでなく舞台全体が灯火に包まれました。

 「レリオ」のオリジナル台本は、悪夢としての「幻想交響曲」にそのまま引き続く形で執筆されており、「俺はまだ生きていたのか……恐ろしい夢を見たものだ……」云々の独白によって、音楽なしにスタートするようになっているのですが、今回は冒頭に「幻想交響曲」の終結部分が再び演奏され、これに乗ってレリオが登場、阿片を飲み下して昏倒し、うなされながら輾転反側するという無言劇が追加されました。「レリオ」という馴染みのない作品が、「幻想交響曲」の続篇であるという印象を確保するという意味では、良い処置だったと思いますが、自殺未遂と悪夢の一夜を演じるにしては時間が短すぎ、かといって「幻想交響曲」をこれ以上多めにリピートするわけにもゆかないでしょうから、中途半端な場面だという印象も残りました。

 毒物の効力が尽きて、「生と和解する」ことを余儀なくされた作曲家レリオは、失恋(ベルリオーズのストーカー的執着対象だった女性アンリエットの名が、そのまま出てきます!)によって一気に呼び覚まされた積年の苦悩・悲痛・厭世観などを、自問自答を重ねながら次第に消化してゆきます。その過程で彼の脳裏に、自身の旧作であるという歌曲、亡霊の合唱、山賊の蛮声、エオリアン・ハープのさやずれ等、様々な音楽が去来するのですが、「幻想交響曲」でアンリエットを表していた楽想が、時として耳に混じりこみ、彼を惨憺たる心情に引き戻すのでした。

 やがてレリオは、敬愛するシェイクスピアと同じように「初めは世に認められなかった才能」の列に連なることを決意して、再び「誰も書いたことのない、新しい音楽」を模索し始めます。そして、シェイクスピアの『嵐』を題材とした合唱曲を書き下ろし、オーケストラを招集して試演をひとまず成功させたところで、そのままハッピーエンドかと思いきや、舞台を去りかけたレリオは、その刹那にまたしてもアンリエットの楽想を幻聴してしまい、「まただ……まただ……いつまで続くのか……」と最後の呟きを発するのでした。


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 レリオ役が辰巳琢郎だというのは、線の細さやインテリ的雰囲気を帯びた俳優ですから、意外なようでもありましたが、終演時には十分に納得させられていました。激情と奇行の人であったベルリオーズ、そして彼の化身としてのレリオは、決して野蛮人でも狂犬でもないのです。レリオのとめどない独白は、どれほど高調しても絶叫調に陥らず、どこまでも理屈っぽいのですが、独白の中でも言及されるハムレットが、あくまで王家の一員であるのと同様、ベルリオーズ=レリオもまた「フランスの芸術家」という人種であり「19世紀の知識分子」に属するのです。ちなみに、第3曲「山賊の歌」に合わせてレリオは、オリジナル台本によれば山賊風の武器を手にして歩き回ることになっているのですが、辰巳の演じるレリオはサングラスをかけ、マシンガンを乱射していました。この場面は「暴力的な妄想のあまり異装に走ってしまうレリオ」が主題ですから、今やアクチュアリティのない山賊装束ではなく、テロリスト風の出で立ちを選んだことによって成功したと思います。

 幕切れの台詞は、私がこれまでに見た日本語版台本や作品解説では、いずれも「もう1度聴かせてくれ」という意味に訳されていました。今回の川口義晴による日本語版台本では、そうではなく「またしても聞こえてしまった」という文脈になっていましたので、つまりアンリエットの楽想に対するレリオの態度は、言葉の表面上、従来の和訳とは逆転したことになります。「もう1度」あるいは「またしても」に相当する箇所は、原文では"encore"となっており、この語をどう解釈するかによって、なるほど2種類の和訳があり得るのですが、私は川口訳に軍配を上げます。新作を書き下ろし、作曲家として「生への回帰」を軌道に乗せつつある段階のレリオは、もはや正面切って「もう1度聴かせてくれ=もう1度アンリエットに会わせてくれ」と懇願するようなレリオではないと思いますし、一方「またしても聞こえてしまった」という言葉の奥底には、「もう1度聴かせてくれ」という心情も垣間見えるようであり、終わりのない物語を暫定的に閉じる呟きとして、含蓄深いと思うからです。



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 惜しむらくは、第1に台本だけでなく歌詞までも日本語訳されていたことです。クラシック音楽の発声法で日本語を歌うと、特に合唱はあまり聴き取れません。ならば歌詞は訳さず、「芸術界の神聖言語」のような趣でフランス語のままにしておくほうが、レリオの孤高なキャラクターに合っているようでもあるし、良かったのではないかと思います。

 第2に、やはり「幻の作品」に名曲は少ないものでしょうか、「レリオ」に含まれる6つの楽曲は、「幻想交響曲」に比べれば聴き劣りすると言わざるを得ませんし、独白劇としてのストーリー展開はともかくも、6曲の性格があまりにバラバラであったため、演奏会(音楽を聴く会)のプログラムとしては虚弱でさえあります。終曲「シェイクスピアの『嵐』による幻想曲」は、レリオの自信作として演奏されるものであるだけに、さすがに聴き応えがありましたが、これとて「幻想交響曲」の終曲に匹敵するほどの傑作ではないでしょう。ベルリオーズの作品の中でも、「レリオ」が顧みられることは少なかった理由は、オーケストラ以外に歌手や俳優を必要とすることだけでなく、音楽作品として必ずしも優れていないことにも求められるのかもしれません。まして「幻想交響曲」と「レリオ」の2本立てによる演奏会は、少なくとも音楽面では竜頭蛇尾を免れないというわけです。

 但し、私たちはレリオ=ベルリオーズが、この後「イタリアのハロルド」「ロメオとジュリエット」「ベンヴェヌート・チェッリーニ」「レクイエム」「テ・デウム」「トロイアの人々」等々、数多の名曲を残したことを知っています。自殺未遂から立ち直ったばかりのレリオ青年には、まだ生み出せなかった「誰も書いたことのない、新しい音楽」は、壮年のベルリオーズによって、続々と実現していったのです。私たちは「幻想交響曲」と「レリオ」の更なる続篇として、これらの名曲を頭の中に響かせながら、帰路に就けばよいのではないでしょうか。たくましい腕でレリオが指揮する「ハロルド」や「ロメオ」を夢想してみる時、「幻想交響曲&レリオ」の演奏会は、私たち一人一人の中でおぼろげに完結するのです。# by nazohiko | 2006-04-15 01:39
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