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ご歌語を垂れたまへ(未定稿) 前半

 岡井隆が「近代歌語というのは、奇妙な混合体である」と書いている〈▼1〉。誰しも何となく納得できる指摘ではないかと思う一方、しかし大多数の人にとって、その納得は「何となく」程度のものに留まってしまうのだろうという気もする。かくいう小生が、まさにそうだった。ならば近代の和歌に用いられてきた語彙や文法は、如何なるものと如何なるものの混合体であって、それが如何様に奇妙だと言えるのだろうか。フラスコ中の薬品の色は、白紙をあてがって検じるものだと教わったことでもあり、まずは近代以前、即ち歌の語彙が「奇妙な混合体」と評されるものになる以前の状況を一瞥してみよう。

 ここからは、前近代このかた伝統的に「歌語」と呼ばれてきた言語、即ち古典文学史や伝統的歌学でいう、狭い意味での「歌語」を括弧付きで表記することにするが、それは平安時代に成立した三代集(『古今集』『後撰集』『拾遺集』)によって成立したものと言うことができる。より正確に言えば、藤原定家が『詠歌大概』の中で「詞は三代集を出づべからず」と号令したように、三代集以後に活躍した和歌文化の担い手たちが、それらの中に現れた語彙や文法を「歌語」と呼んで括り出し、和歌という言語空間におけるいわば神聖な公用語として設定したのだった。

 このような事情により、そうしてかなり人工的に引かれた「歌語」と「歌語でないもの」の境界線からは、三代集以後に発生した語彙や文法が原則的に「歌語」に組み入れられないことは言うに及ばず、同じく年代論的理由により、上代の詩歌言語も少なからず排除されることになる。上代語によって詠われた『万葉集』には枕詞が多様され、異語数から見れば全体の六・〇パーセント、延べ語数から見れば全体の三〇・二パーセントを枕詞が占めていたのに対し〈▼2〉、「歌語」になると「あかねさす」「あまざかる」「あをによし」「うまさけの」「大伴の」「草枕」「たまきはる」「ももしきの」等が大きく淘汰されて〈▼3〉、例えば『新古今集』では枕詞の出現率が異語数では〇・九パーセント、延べ語数では三・八パーセントにまで落ちてしまう〈▼4〉。

 また

家離りいます吾妹を停めかね山隠しつれ心どもなし   大伴家持

に見られるような、家持・山上憶良・柿本人麿らによって多く用いられていた強勢的終止法としての已然形止め(係助詞「こそ」や「ば」を伴わない)は、「歌語」にほとんど現れることがなく〈▼5〉、この他にも藤原公任の『新撰髄脳』にある

「かも」「らし」などの古詞を別して、つねに詠むまじ。

という主張や、藤原俊頼の『俊頼髄脳』に見られる

「べらなり」といふことは、げに昔のことばなれば、よの末にはききつかぬやうにきこゆ。

という記述を通して、彼らが「歌語」を上代語と一線を画するものとして意識していたことが知られるのである〈▼6〉。

 「歌語」はまた、漢字のみで構成された詩歌である漢詩等とは対照的に、漢語を厳しく排除する。八代集(三代集以後『新古今集』まで)を例に取って、延べ語数十五万二千から、使用語彙に関して例外的な作品群である物名歌・釈教歌・連歌を除いて漢語を拾った場合、その数は約四十に留まり、即ち漢語の出現率は〇・〇二七パーセントに過ぎないことになる。右の三つの部立を計算に入れても、なお〇・〇三七パーセントにしかならない。歌合や私家集においても、漢語の排除されぶりは八代集の場合に準じる〈▼7〉。

 更に「歌語」は散文や、古典詩歌の中でも今様等と違って音便を用いることがなく、敬語表現も用いない〈▼8〉。以上のようにして「歌語」は「極端な迄異なった位相語を排斥」する語彙や文法の体系として自らを確立したのであり〈▼9〉、院政期に助動詞「たし」が参入するなど若干の新陳代謝現象を許容しながらも、明治年間初頭に至るまで「まことに閉ざされた言葉」としてその伝統を保持してきたのである〈▼10〉。『古今集』から『新古今集』までを例に取るならば、正に「詞は三代集を出づべからず」の教条通り、使用語彙には九十二~九十四パーセントに達する共通度が認められ、この現象は「歌語」の完璧なまでの継承関係を裏付けていると言える〈▼11〉。そして明治年間も中後期に至って、歌作における「歌語」の墨守が比較的速やかに風化し、和歌という言語空間の公用語は岡井氏のいう近代歌語に取って代わられることとなるのである。

 この時期に興った「近代歌語運動」とでも呼ぶべきもののうち、最も顕著だったのが、枕詞や強勢的終止法としての已然形等、『万葉集』の語彙や文法を復活しようとする万葉主義だったと言えようし、その代表的な現れとしては、明治三十一年の『歌よみに与ふる書』を初めとする正岡子規の評論や歌作を挙げればよいのだろう。しかし注意するべきことがある。子規等の万葉主義は、源実朝このかた断続的に流行してきたそれとは異質なのだ。実朝等に見られた万葉主義型の主張は、京の歌壇や京文化一般へのいわば対抗呪術として持ち出されたものだったのであり、賀茂真淵に至っては平安時代以降の日本文化全体に対する反発や劣等感の中で、「『万葉集』などの古典によって純粋な上代人の心も詞も現在に伝えられているのだから、日夜上代和歌の心・詞に親しんでその世界に入り込み、何とかその心・詞に似たいと志して歌文の創作を試みているならば、純粋な精神を保っていた上代に還ることができる」と要約される発想に基づいて、言語的なタイムカプセルとしての『万葉集』に逃避したのだった〈▼12〉。当然に、彼らの歌作活動においては平安貴族的な「歌語」が、排除される側に回ることになる〈▼13〉。

 一方、子規等の和歌においては片や『万葉集』に由来する語彙や文法と、片や「歌語」とが一首の中に共存していったのである。そして更に注意に値することとして、「歌語」と『万葉集』言語が共存するに留まらず、日本語による学術・文芸一般の中に出現してきた語彙や文法(漢語のそれを含めて)もまた、出典となった文献の分野や時代を問わず和歌言語に新規導入或いは復活使用され、それらがおしなべて共存するようになったのだった。斎藤茂吉からの又聞きによれば、子規は

如何なる詞にても美の意を運ぶに足るべき者は皆歌の詞と可申、之を他にして歌の詞といふ者は無之候。

と語っていたという〈▼14〉。そして、こうした成立経緯と内訳を備えた近代歌語は子規等の活動時期を経て、大正年間初頭までには「奇妙な混合体」として成立・定着していたと認めてよいようであり、例えば右にも名を挙げた茂吉は、既に初期作品集『赤光』の段階で

公園に支那のをとめを見るゆゑに幼な妻もつこの身愛しけれ

に見られるような、漢語や上代的活用を交えた歌作を自家薬籠中のものとするに至っている。

 さて、明治年間中後期から大正年間初頭における、「歌語」から近代歌語へのこうした転変史に着目しながら文芸史を追ってゆくと、「歌語」を継承しつつ、漢語を含め様々な時代・分野の日本語語彙や文法を適宜摂取してゆくという動きが、当時において和歌分野に独自のものでもなかったことに気付かされる。というよりも、近代歌語が成立していった過程は、或る近接文芸分野で既に進行中だった、その分野に適した使用言語を模索する活動を、時期的に一歩後から追いかけていたように見受けられるのである。

 子規は和歌言語を「奇妙な混合体」に変容させることを辞さなかったそもそもの理由として、

趣向の変化せざるは用語の少きが原因と被存候。故に趣向の変化を望まば是非とも用語の区域を広くせざるべからず。〈▼15〉

と語ったというが、「歌語」のみならず伝統的な趣向の体系をも精密に構築してきた和歌という分野にあっては、子規が抱いたような意欲はあくまで任意のオプションとして片付けることも可能である。文芸的アクチュアリティの寿命切れや既視感の累積に疑念が募らない限り、和歌には必ずしも「趣向の変化を望ま」なくて差し支えない訳であり、ゆえに歌作者たちは必ずしも「用語の少なき」を憂えるに及ばない。

 しかし、或る文芸分野が当時直面していた語彙や文法の不備は、和歌の場合のように悠長な対応が許されるものではなかった。この分野に携わる人々が言語で表現しなければならない内容は、同時期の文人たちにとって「趣向の変化」に満ちていたどころか、その分野自体が「趣向の変化」の権化でさえあったから。なおかつ、歌作者であれば「趣向の変化」とやらを、自発的な意欲に基づいてマイペイスに追求してゆけばよかったのに対し、その分野の人々にとって、それは圧倒的な勢いで外部から溢れ込んできて、日々深刻な「用語の少なき」状態に彼らを追いやるものだったから。その近接分野というのは、西洋語からの翻訳文芸、とりわけ翻訳詩である。


*      *      *      *      *


 「明治の翻訳王」の異名を取った森田思軒は、半生の苦心談を問われて

第一に困難を覚えたのは言葉の不足なのです。……実際彼の国の文章に就いてこれを日本の言葉に写さうとする時は、日本の言葉の不足を感じる事は実に想像の他です。〈▼16〉

と答えた。西洋文献の翻訳は明治年間に入って、より正確に言えば明治維新の前後からいよいよ本格化し、膨大な量と広汎な領域において進められてゆくこととなった訳だが、こうした営為の中で、森田に限らず翻訳者たちをおしなべて見舞い続けた問題の最たるものこそ、従来の日本語が西洋文献の翻訳先として不備な言語であり、殊に語彙が深刻に不足していたことだったと言ってよい。明治日本は西洋語を、漢籍に対して行ってきたように「読み下し」方式で日本語化しようとはせず、また現在よく多く行われているように、語彙を片仮名に音写して日本語の文章に埋め込もうともせずに、徹底した翻訳主義を取っていた〈▼17〉だけに、これは回避できない重大な問題だった。

 そこで翻訳者たちは、訳語の準備に少なからぬ精力を費やし続けることになったのだが、訳語確保に用いられた方法としてはまず、既に江戸時代後末期の蘭学者によって作られていた語彙の流用が挙げられる。殊に科学技術に関する文献には、彼らが蓄積しておいた訳語を用いるだけで多分に間に合った次第であり、「神経」や「門脈」が『解体新書』訳出過程で杉田玄白が作った語彙であるのを初め、「腺」「膵臓」「水素」「炭素」「塩酸」「硫酸」「重力」「遠心力」などは皆、蘭学者が用い始めた訳語を明治年間の翻訳者が踏襲したことによって現在まで流通しているものである〈▼18〉。

 第二の方法は、既に漢訳された西洋文献から、漢字による訳語を輸入することだった。同時期の中国でも西洋語文献の翻訳が進みつつあったため、これもかなり有効なソースだったのである。この例としては、明治二年以降に箕作麟祥がフランス民法を訳出した際、直前に日本に入っていた漢訳版のウィートン『万国公法』に拠って、「権利」「義務」「主権」といった語彙を得たこと〈▼19〉等が挙げられる。

 そして第三の方法として、新たな訳語の製造が行われていった。箕作の演説によれば、「動産」「不動産」「義務相殺」「未必条件」といった訳語は自身の作であり〈▼20〉、他にも「箕作先生が新奇に拵へた訳字がずいぶんあります。訳字には随分、骨を折つたものです」と佐原純一が語っている〈▼21〉。また西周は学術語、殊に哲学用語を多く訳した人物だが、西により新たに日本語に持ち込まれた語彙のうち「主観」「抽象」「定義」「帰納」等約半数は彼の新造語であって〈▼22〉、その造語法は

哲学原語、英フィロソフィ、仏フィロソフィー、希臘ノフィロ愛スル者、ソフォス賢ト云義ヨリ伝来シ、愛賢者ノ義ニテ其学ヲフィロソフィト云フ。〈▼23〉

というように、語源的意味へ溯った上でその意味を漢字に移すというものだった。

 以上三方法による訳語の確保は新造にせよ流用にせよ、少なくとも江戸時代後末期までは日本人が知らなかった、目新しい語彙を導入する営為だったという共通項で括ることができる。そして、こうした営為は如何にも「文明開化期の翻訳者の業」然としてイメージの良いものだったせいか、森田のような翻訳家自身や後来の語学史家・文学史家により得意気かつ頻繁に言上げされ、語り継がれてきた感がある。しかし、翻訳者たちによる訳語の準備は、これらのように旧知の日本語体系の外側から新語彙を追加してゆく方法に限られていた訳ではない。日本の近代を、革新と復古を一身に抱えた双頭の蛇になぞらえる言説を方々で聞くが、明治年間における訳語確保の歴史も例外ではなく、それは上田敏の言葉を借りれば「古言を復活」〈▼24〉して翻訳の場に用いてゆく過程でもあったのである。そして、訳語の確保方法としての「古言」の復活が最も顕著に認められる分野こそ、前節で言及した翻訳詩なのだった。

# by nazohiko | 2001-04-01 00:01
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by nazohiko | 2001-04-01 00:00 | ☆旧ブログより論考・批評等
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